06

 チャンスが巡ってきたのは、それから一週間後。


 その晩、寝息を立てている妹の口内に棒を入れると、何度も頬にこすりつけた。目を覚まさないのをいいことに、何度も何度もしつこいくらいに。


「本当に起きないもんだな」


 ソファーで眠るちとせに覆いかぶさりながら、呟くような独り言が漏れ出た。



     ◆



 今日は珍しく日が暮れる前に、ちとせは家路についていた。普段はヒロさんが経営する音楽スタジオに詰め、遅くまで帰ってこないのが常だ。帰ってこない日もざらにある。今日はどうやら、区切りがついたので早かったらしい。


 対して、定時に近い時間に連日帰ってきていた父さんは、こういう日に限って帰りが遅い。父さんには悪いと思いつつも、これはラッキーだった。この日を逃せば、またしばらくチャンスは巡ってこないだろう。


 こういった二人だけの晩の日は、やることはいつも変わらない。ちとせにあれこれ言われながら夕飯を終わらし、風呂に入り、就寝までリビングで過ごす。


 過去にふとしたきっかけで、友人たちに家での過ごし方を話したときは驚かれた。思春期の青少年は、部屋に閉じこもることが正しいあり方だと説教まで受けた。そして悪くはない程度に思っていた兄妹関係は、すこぶる良好なものだと知った。なぜなら彼らと違い、自分はゴミ虫のように扱われていない。


 これも、母が育て残したものなのだろう。言葉にこそしなかったが、母さんのことは好きだったし、ちとせも最後まで母離れができなかった。遊びと勉強の場も、父さんの帰りを待つ母さんがいるリビングだった。その習慣が、今でも宮野家には残り続けている。


 最近はもっぱら、ちとせに勉強を教えるのが習慣になっていた。勉強の中身が大学受験に向けているものだと気づいたときは驚いた。てっきりかつての母さんのような生き方を目指すものだと、勝手に信じ込んでいたからだ。その旨を伝えると、


「わたしだって女子大生の称号くらいは欲しいよ」


 それ以上の理由と意気込みを口にすることはなかった。


 どうやら自分と同じ大学を目指しているようだが、大学受験はそんなに甘くはない。放課後のほとんどをバンドに費やし、その少しの合間に勉強しているだけでは難しい。


 受験勉強のあれこれを説くと、ちとせは今までの成績を差し出してきた。愕然とした。当時の自分よりずっと上だった。


 以来、実は現実味があったちとせの受験勉強を本格的に見ている。二度とやるものかと封じた、地獄のような受験対策を開封し改良する日々だ。


 今日もそれは同じ。


 時刻は十時半。根を詰めすぎたちとせが寝落ちするのに、なにもおかしくはない時間帯だった。例えそれが一服を盛ったものであっても、誰も自分を疑うことはないだろう。


 ぺちぺちと頬を軽く叩きながら「ほら、起きろ」とわざとらしく声をかける。反応はない。試しに冷たいグラスを首筋に当てるも「んっ」というどこか艶めかしい吐息を漏らすだけで起きる様子はない。


 ちとせの肢体を持ち上げ、優しくソファに寝かせる。


 自分がこれからやることを思いながら息を呑む。ちとせは賢い。これからやることに、どんな意味があるか気づくはずだ。言い訳は利かない。


 薬を盛ったからには、やると決めたのだ。もう後戻りはできない。


 秀一から薬と一緒に渡されたそれを取り出した。


 綿棒だ。それもDNA採取用専用の。


 決意を決めて、寝息を立てるちとせに覆いかぶさる。口を開き、綿棒を頬の粘膜にこすりつけた。


 これを二セット。自分の人生を揺るがす作業は、あまりにも呆気なく終わった。かに見えた。


「なにやってるんだ」


 首が折れるのではないかという速度で振り返る。


 父さんがいた。いつものことながら、残業にどこか疲れた顔をしている。


 心臓が止まる思いとは、まさにそのことだ。今年一番の集中力を発揮していたせいだろう。足音どころか、扉の開閉音すら聞こえていなかった。


 父さんからはソファのせもたれしか見えない。見えないが、はみ出しているちとせの足と自分の上半身を見れば、およそどのような体勢になっているかは予想がつく。


 娘に跨る息子の図。


 第一声の失敗は、今後の家族関係に響くだろう。


 今年一番の集中力の次は、今年一番の頭の回転だ。父さんを認識してからおよそ一秒。脳からはじき出された言い訳は、


「額に肉って書こうと思って」


 苦しいものだった。


「やめてやれ」


 長年培ってきた親子の信頼万歳。あっさりと父さんは自分を信じたのだった。



     ◆



 父さんが風呂へ向かってからは迅速だった。DNA採集セットの片付けと同時に、ちとせを部屋へ運ばなければならない。仮にも父さんはベテラン刑事だ。どんなところで見抜かれるかわからない。悪事の証拠は遠ざけるに限る。


 手早く証拠の隠匿を済ませると、ダイニングでは父さんが晩酌の準備を進めていた。既にというほうがいいのかもしれない。いくら坊主頭で楽とはいえ、これではカラスの行水だ。


「おまえも飲め」


 二つのグラスにビールが注がれていく。瓶に貼ってあるラベルは馴染みの赤い麒麟だ。


「未成年に飲酒を進める不良刑事がいる」


「息子の飲酒に目を瞑ってなにが悪い」


「なるほどな。警察の身内の不祥事は、こうやって隠匿されていくのか」


「いいからとっとと座れ」


 話を乱暴に切り上げるが、自分の減らず口に我慢ができなかったのではない。折角黄金比で注いだビールの泡が失われることに我慢ができなかったのだ。


「今日はいつにも増してお疲れの様子だけど」


 グラスを交わすなり、一気に飲み干された父さんのグラスに酌をする。


「なにか問題でも起きたわけ?」


「警察には問題しか持ち込まれない」


 父さんは苦々しげに表情を締める。


「特にうちは、いつも凶悪犯罪の敗戦処理だ」


「そういうのってさ、もっと未然に防げないわけ?」


「犯人が予め場所と決行日を教えてくれればな。書類で申請してくれればなお良い」


「それはもうただの犯罪予告だ」


 呆れながら自分もグラスを空にする。


「それで、今日はどんな難事件が起きたわけ?」


「流行りの通り魔だ」


「ノックアウトゲーム!」


 自ら言葉にしたことを契機に、沸騰するような怒りを覚える。つい先日までは縁遠く感じたその事件は、今や最も身近な憎むべき事件になっていたからだ。

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