08

 その日、本物の妹かもしれない少女と対面を果たした。


 朝倉家の和室の一室。両親のいないタイミングを見計らい、秀一は彼女と引き合わせてくれた。


 美しい少女だ。卵型の輪郭に切れ長の黒い瞳。白さが際立つ肌に長い黒髪。まだまだ少女らしい面立ちこそあるが、口角を僅かに上げたその微笑みが、彼女をとても大人びたものにしている。


 彼女に残る幼さは、同時に成長後の期待に繋がるものだろう。どのように大きくなっていくか、家族が期待をかけてしまうのも無理はない。しかし成長の余地を残したその身は、今はとても小さな箱の中だ。


 生前の彼女に思い馳せながら、仏前に線香を上げ、両手を合わせた。




     ◆




「葬式は生きている人のためのもの、とはよく言ったものだね」


 ずっと無言だった秀一が、ふいに口を開いた。


「仁美が死んだことを告げられたとき、辛いとも悲しいとも思わなかった。ただ呆然としていたんだ。警察から帰ってきたときも、葬儀の間も、通夜の間も」


 その声色には悲壮感はない。淡々とした語り口だ。


「この小さな箱に仁美が収まってやっとわかった。もういないんだって。そこでようやく、辛いとか悲しいとか、色々ごちゃ混ぜになった感情が湧いたんだ」


 アルバムに落としていた顔を秀一に向けた。


「うちもそんな感じで現実味なんてまるでなかった。車に轢かれたはずなのに、帰ってきてみれば綺麗なもんさ。呼びかければ起きるんじゃないかと思ったけど、結局最期までできなかった」


「僕と同じだ」


「その瞬間突きつけられるからな。もうこの人はいないんだってさ」


 自重気味に笑った。


「結局、やってることはただの現実逃避。問題の先送りだ」


「今ならわかるよ。葬式が大事なのは、まさにそんな僕らみたいな者のためだって」


 秀一は遺影を見た。


「あのときの僕は、仁美が生きていることを諦めていなかったんだ。でももう仁美はいない。あの葬式は、その現実を得るための儀式だったんだよ。故人云々は二の次だ」


「死を受け入れていないのに、弔うも悼むもないってことか」


 秀一の視線の先に目を向けた。しかし見ているものは違う。秀一の目に映っているのが遺影だとしたら、自分の目に映っているのはそれが飾られている後飾りだった。


「これがまだ片付かないのは、葬式だけじゃ足りなかったってことか?」


 事件から既に二ヶ月。未だに片付いていない後飾りを見て指摘した。


「トシは鋭い」


 困ったように秀一の口角は上がっている。


「忌明けの法要で納骨するはずだったんだけどね。母さんが離さないんだ」


 視線は遺影の横。骨壷に向けられた。


「これは母さんの、仁美をこれ以上手の届かないところへ行かせない、最後の抵抗なんだ」


 嘆息をつく秀一。


 不条理な死によって家族を失う痛みは経験済みだ。あの喪失感は簡単に埋められるものではなく、乗り越えられるものではない。


「最後の抵抗、か。当時のちとせを思い出すよ」


「ちとせはどんな抵抗をしたんだい?」


 そう問い返す秀一。礼儀としてではなく、興味を抱いた声色だ。


「祭壇の前で歌ったんだ」


「歌った?」


「ギターをジャンジャンかき鳴らして、毎日毎日喉が枯れるまでな」


 秀一は目を点にしながらも、すぐに我を取り戻した。


「そうか、ちとせなりの葬送の歌ってやつか」


 ちとせは母譲りのロッカーなのだ。音楽こそが、母子最大のコミュニケーションだった。ならば母さんを送るのに、これほど相応しい手段はない。


 そんなことを思っているだろう秀一を見て、つい笑ってしまった。


「違う。逆だよ、逆」


「逆?」


「あれは葬送の歌なんかじゃない。復活の儀だよ」


 秀一は逆の答えをもたらされ、思わず目を見開いてしまっている。


「ほら、ロックは魂だとか言うだろ? 母さんが作った曲を歌っていれば、蘇るかもしれないと思っていたんだ」


「なるほど、文字通り魂の歌ってわけか」


「毎日毎日そんな風に歌うんだ。近所から苦情がきたよ」


「ビーマイセルフの曲は、どれも強烈で激しいものばかりだからね。あれを毎日聞かされたら、確かにうるさいと怒られる」


「いいや、泣けるから止めてくれって」


 またもや逆の解答をした秀一を見て、つい噴き出しそうになってしまった。


 母さんは刑事の妻として、近所でも評判がよかった。ちとせとの親子仲は誰もが知るとおり。そんな娘が亡き母の遺骨前で、泣くのではなく、母が作った曲を歌うのだ。子供を持つ親たちからして見れば、胸を打ちすぎて泣けてしまうのは当然だろう。


「ちとせは素直に止めたのかい?」


「ああ、聞き分けよく、家では歌うのは止めたよ」


「家では?」


「アルバムのジャケットの、派手な男がいただろう?」


「いただけど……あれが男だとは、未だに信じられないよ」


「仕方ないさ。なにせ人体改造を施してるからな、ヒロさんは」


 整形のことだとすぐに思い至ったのだろう。秀一は笑いを堪えきれていない。


「家がダメならと、ヒロさんのスタジオに朝から晩まで入り浸ったんだ」


 ヒロさんはひととせの活動を、全面的にバックアップしている支援者である。秀一もひととせを予習して自分に近づいたんだ。その名前くらいに覚えがあるだろう。


「ヒロさんにとって母さんは、ただの元バンドメンバーってわけじゃない。その仲を親友なのかと問おうものなら、『そんなチンケな言葉で片付けないで頂戴』なんて憤り出す人だ」


「じゃあどんな言葉で表しているんだい?」


「その言葉を見つけることが、人生の課題らしい」


 男女の仲ではないのは、今までの話で秀一もよくわかっているだろう。だからこそ異性の友人にそこまでの思いを抱けていることを、秀一は素直に感心している。


「そこまでの課題を掲げる人だ。ちとせのことは張り切って面倒を見てくれた。俺たち家族と変わらないくらい悲しいはずなのに、泣くのはいつでもできる。今はちとせのことが第一だって」


「素晴らしい人だ……と言いたいところだが、君はちとせの後回しにされたのか」


 同じ兄妹のはずなのに、差別されていることを秀一は笑った。


「後回しも後回し。ヒロさんは男には厳しいんだ。俺と父さんに『貴方たちは男よ。どれだけ辛くても、玲子がいるあの家では絶対に泣いてはダメ。泣きたくなったならいつでもあたしのところに来なさい。貴方たちが泣いていいのは、あたしの胸の中だけよ!』なんて言う始末だ」


「じゃあ君は、そんな胸の中で泣いたのか」


「何が悲しくて男の胸で泣かなきゃならん。そんな風に脅されたんだ。父子揃って、最後まで泣きそびれたよ」


 やれやれと息をつく。不満からではなく、そんな過去を思い出しおかしくなってきたからだ。


「でも、それで良かったんだ。あの家で誰かが泣けば、誰かがまた引っ張られる。悲しみの泥沼。負のスパイラルだ」


「そうだね。折り合いがついてきた僕でさえ、ここで泣いている母さんを見ると引っ張られそうになる。そのヒロさんって人は、きっとそれがわかっていたんだ」


「その後も、母さんに変わって全部の面倒をみてくれたからな。家族揃って、あの人には頭が上がらん。そしてヒロさんは、母さんに頭が上がらんという二段仕掛けだ」


 気の利いたことを言えたことに、我が事ながら満足だ。


 話の区切りはついた。秀一はそれを見計らうと、腰を上げた。


「急に母さんが帰ってきても面倒だ。仁美の部屋へ案内するよ」

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