09

 個室というのは、部屋主の匂いが染み付くものだ。


 同じ家の下でありながらも、扉を開ければ別世界のような特有の匂いがする。


 青少年であるのなら、少女たちの部屋に求めるのは、どのような形をしているかだけではない。その匂いこそ、彼らの性的欲求を促す役割を果たすだろう。


 思春期真っ只中の少女の部屋に足を踏み入れた。しかしそこに漂っていたのは、甘酸っぱさに溢れた少女の匂いではない。不特定多数の者たちが出入りし続けてきた結果の、ただの家の匂いに成り下がってた。


 三ヶ月もまだ経っていない。かつてこの部屋で過ごしていた少女の面影は、目に映る物からしか感じられない。思い出が風化していくような、そんな寂しさがそこにはあった。


「年頃の女の子にしては、スッキリした部屋だな。もう色々と片付けたのか?」


 目につく家具は、横長の机に椅子、ベッド。唯一部屋主の個性を見いだせたのは、電子ピアノくらいであった。


 出入り口以外に、両開きの扉があった。ウォークインクローゼットかもしれないと予想した。衣類だけではなく、その他雑多は向こう側なのだろう。


「いいや、ほぼ当時のままさ。仁美は可愛いもの好きな女の子でなければ、流行りを追う平均的な女子高生というわけでもなかったからね。どんな娘だったかわかるかい?」


「勉強と習い事漬けのお嬢様。習い事はピアノに茶道、生花ってところだね」


「凄いなトシは。百点満点だ」


 まるで見てきたかのように習い事を当てられて、秀一は手拍子を送ってきた。


「よくいそうなお嬢様の、雑なイメージだったんだがな。いくら雑だからって、ベッド周りの色が可愛げなすぎる」


 真っ白な清潔感溢れるベッドシーツの上は、紺一色。


 まさにこのベッド一つのせいで、秀一の部屋に案内されたかと思ったほどだ。


「僕の真似事だよ。『寝ぼけた兄さんが部屋に入ってきたら、こうして置けば気づかないでしょ?』なんて言ってね」


「気づかないでしょって……普通逆だろ? うちと違って、随分と可愛げのある妹だな」


「兄離れができない妹だったんだ」


 困ったものだとばかりに秀一は首を振る。


「放課後の交友関係も全部、勉強や習い事に取られてきたんだろ。おまえの妹の世界は、広いようで、その実は狭かったんじゃないのか?」


「見てきたかのように言うね。その通りだよ」


「世界狭いだ。親しいのは家族だけ。歳が近くて心許せるのは、それこそヒデくらいだろう。ヒデは誠に遺憾ながら女が群がるハンサムだ。そんな兄を持てば、お兄ちゃん好き好き言っても仕方ない」


「僕は誠に遺憾なのか」


 あらゆるやっかみを耳にしてきた秀一だろうが、こんなやっかみは聞いたことがないのだろう。初めての表現に噴き出しそうになっていた。


「ああ、遺憾の意を表する。うちなんて、大好きなお兄ちゃんについては、ないものねだりはしない主義と言われたくらいだ」


「ははっ!」


 今度こそ秀一は耐えられなかった。


 こんな愉快なやっかみは初めてだとばかりに、秀一はお腹を抱えている。


「初めて会ったときから、君には笑わされてばかりだ。……でも、仁美の世界が広がらない原因は、中学生になってすぐ断ち切られた。習い事の全てはバッサリ辞めたんだ」


「そうなのか?」


 意外な事実に驚いた。


「ほら、言っちゃなんだが、あの手の習い事なんて、どうせ母親に押し付けられたものだろ?」


「君はハッキリものを言う。人の母親を捕まえて、どうせときたか」


「そんな習い事を辞めるなんてよっぽどだ。辞めさせられたのか、自らの意思を主張したのか。どちらにせよ、これはもう事件だろ」


「確かにあれは、朝倉家を震撼させた事件だった」


 今でもそのときのことを忘れられないのか、秀一は遠い過去を懐かしむかのように、その口を開いた。


「ある日突然、仁美が全ての習い事を辞めたいと言い出したんだ」


 言葉に出すだけなら、どこにでもありそうな風景。しかし朝倉家にとっては、それこそ落雷が降り掛かったかのような衝撃だったろう。


「『自分の生き方に疑問を覚えたの。このままだとお母さんたちのことが嫌いになってしまう。どうかこれからも、大好きな家族のままでいさせてほしい』ってね」


「与えられるがままに育ったお嬢様が、急にその手から離れたいってか。確かにそれは一家を揺るがす大事件だ。どんなキッカケがあったんだ?」


「詳しいことはなにも話してくれなかった。ただ、仁美はこう言っていたんだ。『私を見つけた』って」


「私を見つけた、ね」


 一体どんな自分を見つけたのか。思い馳せるしか自分にはできない。


「それでヒデの両親は、それにどんな判断を下したんだ?」


「あの仁美がそこまでのことを言うんだ。周章狼狽、質疑応答、熱願冷諦だ」


「なんだ、ネツガンレイテイって?」


 自分のユーモアセンスの真似をしたつもりの秀一は、ガックリ肩を落とした。こういうのは相手のレベルに合わせることが、何より大事であることを思い知っただろう。


「自分たちを嫌いになりたくない。大好きなままでいたいから、辞めたいと言うんだ。その本気を知って、ついに諦めたのさ。父さんはむしろ、仁美の一つの成長として最後には喜んでいたが……」


「問題は母親だな。この手の母親は、自分の理想を娘に押し付けるのを生きがいにしてる。さぞかしガックリしただろう」


「さっきから君は、僕らの事情をポンポン見抜きすぎだ。ホームズを相手にしている気分だよ」


「そこはあれだ、人生経験のなせる技。目を通してきた書や芝居の数がものを言う」


 秀一はそんな自分の言葉に素直に感心している。


 ただし、自分が見てきた書や芝居とは、漫画から始まり娯楽小説やドラマや映画。世間の流行りをひたすら追い続けてきただけである。それを人生経験の一言で纏めているとは、秀一も想像だにしてないだろう。


「母さんは元々、オペラ歌手として育てられてきた人だ。才能もあり世界へのキップに手が届きそうだったが、お気に入り争いっていうのに負けたらしい。最初はその夢を仁美に託していたが、才能に見切りをつけてそうそうに断念した」


「それで次はピアノに茶道に生花か? ヒデの母親は、娘を一体なにに育てようとしてたんだ」


「どこに出しても恥ずかしくない娘だよ。良い大学を出て、良い縁談を見つけて、良い子供を産んで、良い母親になることを望んでいたんだ」


「ピアノと茶道と生花が、それにどう繋がるんだ? 俺にはさっぱりだ」


「僕にもさっぱりさ。でもその通りに育てていれば、そんな未来に辿り着けると信じていたんだよ、母さんは」


 何度も想像するも、断念した。どうあがいても、その未来に繋がる理由がわからない。


「こうして仁美は、勉強を疎かにしないし、悪い遊びもしない。それだけを誓って、習い事の全てから手を引いたんだ」


「めでたしめでたし、というわけか」


 すると、秀一は首を静かに左右に振った。


「これを見てもらえるかい?」


 秀一は机の引き出しから、一つの物を取り出した。


 机に置かれたのはノートパソコン。真っ先に目についたのはリンゴのマークだ。世界的に有名な企業のロゴであり、最近買うか手をこまねいている品であった。


 秀一はそのパソコンを起動させることはない。見せたいのは、この本体だと言わんばかりに手を向けた。


「どう思う、これ?」


「どう思うって……ネットをするためだけに使うなら、女子高生には贅沢すぎるんじゃないのか?」


「その通りだ。仁美もパソコンは、ネットをするのにしか使ってないと言っていた。だから僕のお下がりをあげたんだ」


 ジロジロとそのパソコンを見る。


 ホームページで見るだけではない。実際店頭で手にとって、次新しいのを買うならこれが欲しいと、ないものねだりをし続けてきた。だからこそ、すぐに気づいた。


「これ、去年のモデルだろ?」


「僕が次に言わんとすることを常に先回りするね、トシは」


「そして今年度のモデルは最近出たばかりだ」


「そうだ、出たばかりだ」


「ヒデ、おまえは年一でこんな高級品を買い替えてるのか?」


「確かに最近買い替えたばかりだけど、流石に物が物だ。年に一回なんてペースはないよ。去年のモデルも買った記憶がない」


「は……?」


「だからさ、僕はこんなパソコン、仁美に上げた覚えがないんだ」


 会話の流れを常に牽引し続けた自負はあったが、ここにきて止まってしまった。


 その意味を考える。


 自分は勉学はともかくとして、よく察しがいいと言われる。会話でそれ発揮することで、おまえは占い師か気持ち悪い、と友人たちからは大評判だ。


 全ての道筋をまず飛ばして、秀一の言わんとしていることの、真の意味に辿り着く。


「どっからそんな金、湧いてくる?」


「こういうのに詳しい友人に頼んでさ、中まで見せてもらったんだ」


 秀一はそんな問いに、困ったように口を開いた。


「パスが突破できないからね。ハードの方から攻めてもらった。店に置いてある既製品じゃなくて、カスタマイズ品らしい」


 注文する際に、通常のスペックで物足りない者は、追加投資で性能の向上を図れる。その追加投資というのが、庶民にはびっくりする金額であり、自分では手が出ない要因の一つでもあった。


「本体代の、更に倍以上は乗っかっているようだ」


「親に随分と凄いおねだりをしたもんだな」


「もしねだったのなら、僕の耳に必ず入る」


「じゃあねだったのはお小遣いか」


「仁美はまだ高校生だ。いくら父さんたちが甘くても、目的も言わずそんな金はポンと出さない」


「なら頑張って貯めたお年玉だな」


「通帳の金額が全く動いていない。もちろん、アルバイトだってしてなかった」


「……じゃあ、家族に隠れて頑張って稼いだんだろう」


 どうやって、とは秀一は言わない。そこに自分で辿り着いているのは、既に知っているからだ。


 お嬢様だからとはいえ、庇護がなければただの年相応の小娘だ。それが親に隠れて大金を稼ぐ方法は、あまりにも少ない。少ないからこそ、非合法のその手段は誰もがすぐに思い至る。

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