10
重い空気が、この部屋を支配する。
「最初はさ、それが原因かと思ったんだ」
「死の原因か?」
「そうだ。それがなんらかのトラブルを引き起こし、ノックアウトゲームを装って、仁美は殺された」
三ヶ月前に死んだ仁美は、事故でもなければ、自殺でもない。殺されたのだ。ノックアウトゲームの相手に運悪く選ばれ、当たりどころも悪く、人通り悪かったゆえに発見が大いに遅れた。
運悪く殺されたのだ。そう、思っていたら新たな可能性が浮上した。
金銭を得るために仁美が支払った対価。もしその方法を選んだのであれば、一度や二度で済むものではない。それこそ何十回という、行為の繰り返しがあったはずだ。
トラブルが生まれるには、あまりにも十分な理由だ。
「だけどよくよく考えるとさ、これもまた理屈に合わないんだ」
「理屈に合わない……そうか」
秀一の意図がすぐに読めた。
「なんでそんなことをしてまで買ったのが、パソコンなんだ?」
「確かにこれを求めるには大金が必要だ。でも我が家はこのくらいなら、ねだればポンと買ってくれる。これが欲しいと言うだけでいい」
「折角買うんだ。性能も良いものにしないとな、と言って重課金してくれるというわけか」
「僕もそうして、今のパソコンを買ってもらった」
「ならこのパソコンは、借り物になのか、だが……じゃあこんな高価なもの、一体誰に借りたんだ、になる」
「それだけじゃない。仁美もこれを一体、何に使っていたんだになる。使い古しとはいえ、仁美に上げたのは悪いものじゃない。わざわざそれを差し置いて、なんで新しい、それも高スペックのものを求めたのか」
「まさにその秘密が、これには眠っているわけだな」
秘密を眠るパソコンを、秀一は睨みつけるように凝視している。まるでそうしていれば、いずれ開けゴマが通じるとばかりだ。
「家探しした結果は?」
「これだ」
自分の先回りなど慣れたとばかりに、秀一は後ろポケットからそれを取り出した。
手帳だった。葉書大のそれは、黒のレザーカバーに収まっていた。
秀一は手帳を机に置くのではなく、自分にそれを差し出した。目はその中身を確認しろと言っていた。
数ページほど捲って中を見た。
「日記……帳か?」
断言しかねたのは、それ自体がどこにでもある手帳の体裁であったこと。日毎に起きた内容が綴られてこそいるが、どれも一ページ一行で完結したものばかり。長くても精々二行程度だ。日記というよりはメモに近い。
仁美の物であるのは間違いないのだろうが、その字は少女特有の丸みを帯びたものではない。ちゃんと教育された、書類に書かれていても恥ずかしくない字である。その日に起きた一番の出来事を簡潔に綴っている様も伴い、少女の日記帳には相応しくない。
読み飛ばすようにパラパラと捲っていく。すると六月半ばのとある内容が目に入り、この手は止まった。
「私を見つけた……」
朝倉家を震撼させた大事件。そのキッカケとなった言葉だ。
秀一は何も言わない。それはまるで、続きを早く見るよう促しているようだ。
今度は読み流すことなく、一ページ一ページ大事に捲る。きっと秀一が見せたいものが、すぐに先にあるように思えたからだ。
「私は間違ってここにいるのかもしれない」
七月に入ると、すぐにそんな内容が目についた。
「確認することに決めた……ついに今日、実行に移した……結果が待ち遠しい」
日を跨ぎながらも、すぐにそんな気になる内容が続いていく。
秀一が一番見せたかったろう内容は、七月の半ばを過ぎた頃にあったのだ。
「嬉しい。私と兄さんは血が繋がっていない」
「仁美が習い事から手を引きたいと言い出したのは、その次の日だ」
そこまで読んでもらえれば十分だとばかりに、秀一は切り出した。
自分にしては珍しく、次に出す言葉に迷いが出た。妹に随分と愛されていたんだな、という軽口が出ないのだ。
「仁美は夢見がちな妄想を、手帳にしたため自分を慰めるような性格じゃない。だからこれは、きっとあったことなんだ」
「おまえとの血の繋がりを、確かめたのか」
「まさにこの前、君に頼んだようにね」
この前使ったDNA採集セットは、秀一が用意したものだった。
調べたのは自分とちとせの血の繋がりだけではない。ちとせと秀一の関係性も、同時に調べてもらったのだ。
今日はその採集セットを、渡す目的もあった。
「当時中一の女の子が、たった一人でか?」
お金はお小遣いの範囲でなんとかできたとしても、採取キットとその結果を、誰にも見つからないよう受け取るのは難しいはずだ。秀一は医学部に通っているだけあって、父親は医者だ。それも病院の院長だ。もし見つかろうものなら、やっていることはすぐにバレたであろう。
子供が家族に見つからず、一人でこれらをやるなんて綱渡り。成功するのはミステリ小説の中くらいだ。
「同級生を頼れるような案件じゃない。それこそ大人の手助けが必要があったろうね。ただし、こういうときに仁美が信頼し頼れそうな大人を、僕は知らない」
それは親族だけではない。学校の先生なども含んでのことだろう。当然、近所に頼れるお兄さんお姉さん的な存在もいなかったに違いない。
当時中学生だった仁美が、こんなことを頼める大人をどこから見つけてきたのか。謎が深まるばかりだ。
「残念ながら、この件に関しては完全にお手上げだ」
秀一から細い息をつくような気配が届いた。
「だから、違う線を調べてみることにした。仁美との血の繋がりを調べることは、今となっては難しい。だから血が繋がっていることを調べるのではなく、なぜ血が繋がっていなかったのかを調べることから始めたんだ」
真っ直ぐと自分の目を見据えてくる秀一。その目は、君はその答えをもう導くことができるだと、と言っていた。
「新生児の取り違え、か」
「昭和ならともかく、平成になって大分経っている現代日本だ。そんなことが起きるなんてありえない」
「ありえないが……起きるなにかがあったというわけか」
「母さんが出産を間近に控えたある日、家族で郊外にでかけていたんだ。産まれたらしばらく自由が利かなくなる。その前に旅行とは言わずとも、ってやつだね」
「その帰りに陣痛が始まったんだろ。近くの病院に駆け込んで、早産ではあったけど、無事出産できました話だ」
「君の目は、過去か未来でも見通せるのかな。それとも書や芝居から学んだ、人生経験ってやつかい?」
「いいや、我が家の妹が産まれたときの話だ」
ちとせが産まれたときは大変だったと、母さんが語った体験談。ただし自分たちは、母親たちが産んだ子供を、名前では既に読んでいなかった。ただ、妹とだけ指していた。
「なんでも、出産中にもう一組駆け込んできて、大騒ぎだったとか」
「ベッドが多い場所じゃなかったからね。陣痛を起こした妊婦に続けて駆け込まれでもしたら、人手の問題からてんてこまいだ」
「ほぼ同時に出産だ。……そこで間違いが起きても、仕方ないというわけか」
秀一に導かれるがまま、その答えに辿り着いた。ただし当の本人が振る首は、縦ではなかった。
「トシ、そういうときだからこそ病院は、間違えないようしっかりとやるんだ。起きたのはそこじゃない」
「……なら、どこで起きる?」
「君の目は全てを見通す目だ」
そんなこと、わざわざ口に出させないでくれ、と言っているようだ。
「この前のスナックであったお兄さんがいるだろ? 彼のツテを使って、探偵に調べてもらったんだ」
探偵、という単語に思わず目を見開いた。そんなことまでしていたのか秀一は。
「なんでも、当時立ち会っていた看護師の一人が、一ヶ月後に自殺したらしい。突然のことに、病院の先生たちも驚いたようでね。彼女が家族の問題で、長年精神科にかかっていたのを知らないでいたそうだ」
家族の問題。精神科通いの看護師。答えはそれだけに集約されていた。
「遺書にはただ一言、こう書いてあったらしい。ごめんなさい、って」
ほんの気の迷いだったのかもしれない。アクシデントは起きたけれど、新たな家族の誕生に皆が祝福した。新たな門出に幸されと、誰もが喜んでいるのだ。
今の自分とは縁遠い幸せを、間近で見てどう感じたのだろうか。
続けて二つも誕生したその幸せ。運命を狂わすことができる自らの手を見て、どのような衝動に突き動かされたのだろうか。
聞き出そうにも、運命を狂わせた手はもうこの世にはない。ただわかるのは、自らしたことを悔いて逝ったことくらいだ。
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