08
結局、真理の謎を残したまま、日々ばかりが過ぎていく。
真理は必ず、仁美の謎の一つに繋がっている。
自分のことを、仁美と血の繋がった兄だと知っていた。それだけであの日、真理が口にした言葉の意味が変わってくるものがある。
凄いお兄さんがいる。
これは朝倉家とは別に、血の繋がりがある兄がいることを指している。これについては今更だ。
大事なのは、仁美と仲良くなったのはお兄さんのおかげ、である。
最初は秀一のロック好きが仁美に影響を与え、そのおかげで共通点を見出したのかと思っていた。だがあのときは、そういう意味を指していたのではない。
自分がなにかしらのキッカケとなり、仁美との仲を繋いだのだ。
一体どうやって?
まさか真理もまた取り違え子であり、そこで共通点を見出したわけでもあるまい。
自分自身がなにかをしたのだ。覚えはまるでない。あれだけ母さんに似ている仁美を見たなら、必ず覚えているはずだ。
もしかして、ポエム帳に関係あるのだろうか?
家族に見られたくない物だと言って渡されたあの手帳。あれは秀一にも見られたくない物として、自分に委ねられたのだ。
もう一度、ゼロから見直して見るべきか。
それよりも真理にずばり尋ねるべきか。
別れるとき、彼女はなにかを言いたげであった。すぐに踏ん切りが付かなそうであったから、彼女に連絡先を尋ね、気持ちの整理がついたら教えてくれと言ったのだ。
やはり真理についてしばらく様子見。待つしかないだろう。
仁美の八月の月命日。
既に習慣となったかのように、朝倉家に線香を上げ、夕方頃仁美が亡くなった現場を訪ねる。
もしかしたら真理とまた鉢合わせるかもしれないと、期待したからだ。
あの日と同じ夕暮れどき。
相変わらずの無手でその場に訪ねると、先客がいた。
女の子だった。白いシャツとジーンズ生地の短パン。黒いキャップを被っている。
しゃがみながら手でも合わせているのだろう。
遠目で見たときは真理かと思ったが、近づくと後ろ姿だけで違うのはわかった。
地面を踏みしめる自分の足音に、女の子の肩が揺れた。かつて悲劇があった場所だ。自分の世界に没頭するほど、彼女ものんきではないのだろう。
そして女の子は肩越しに振り返った。
「え……」
世界が止まるかのような衝撃が自分を襲った。
真理ではないのはわかっていた。そこに驚きはない。
実は生きている仁美だった。そんな事態に遭遇しても、ここまで驚くことはなかったろう。
死者の復活以上に、自分はなにに驚いたのか。
「ちとせ?」
自分の妹だったからだ。
ちとせは一度目を大きく見開いた後、立ち上がりながら振り返った。「あぁ……」なんてなにかを悟ったような息をつきながら、近寄ってくると自分の胸元に顔を寄せた。
「お線香の匂い」
大好きなお兄ちゃんに抱きついてくるような可愛げを見せたわけではない。自分についているだろう匂いを、確認したのだ。
「やっぱり、こうなったか」
今度こそ大きなため息をちとせはついた。
「噂のヒデがおにいに近づいてきて、嫌な予感はしていたんだよね」
ちとせは身を翻すと、もう一度手を合わせた場所にしゃがんだ。続きをやろうとしたわけではない。コンビニ袋の上に置いた品を片付け始めたのだ。
あの日、真理が買ったものと同じカフェラテを袋にしまった。
思い出す。ちとせがヒデと距離を置いたほうがいいと忠告してきたときのことだ。
ヒデは自分に恋する乙女と同じ目を向けていると、バカみたいなことを告げてきた。自称人を見る目がある、偉そうな妹からの忠告。蓋を開ければそんなことはなく、ちとせはやっぱり適当なことを言ってるだけだと軽んじた。
だが、話はこれで大きく変わった。ちとせはヒデと距離を置いて欲しかったのだ。その結果があの戯言のような、嘘である。
「どうして?」
なのに今口にできるのは、わかっているのに漏れ出たそんな声だ。
「おにいはさ、なんで自分がモテないのかわかってる?」
ふいに、ちとせはそんな場違いな言葉を紡ぎ出した。
「わかってないなら、教えてあげる。おにいはさ、すぐに相手が言わんとしていることを察して、先回るクセがあるでしょ? 気持ちを決めつけるかのように、ほら、こう思ってるんだろ? こう言いたいんだろ? 答えはこうだろ? って。例えその通りでも、面白く思わないのが普通だよ」
かつてヒロさんが辿り着いた、世界の七不思議。
宮野和寿ほどの男がなぜモテず、彼女ができないのか。我が妹もまたその真実に辿り着いており、自分に答えをもたらしてくれた。
「女の子にモテたいのなら、気持ちを言い当てるんじゃない。大事なのは口から言葉を引き出す能力。女の子が言い当てられて喜ぶのは、占い師相手だけだよ」
ちとせは再び自分のもとに近寄ってくると、同じように胸元に顔を寄せた。今度は匂いを確かめるのではなく、キャップのつばの置きどころに使ったのだ。
「そして今日のおにいは、その占い師でいいんだよ」
「そうか……」
「うん……」
自分は察しがいい。とっくに答えに辿り着いている。
でもこれは自分だけが辿り着ける答えじゃない。ここにちとせがいる。それだけで誰もが辿り着ける、そんな簡単な真実だった。
私を見つけた。
仁美はそう言葉を残していた。たまたまちとせを見つけたと、自分たちはそう勘違いしてきたのだ。
仁美はただ、ちとせを見つけたのではない。
「おまえたちは、出会っていたんだな」
◆
「軽音楽部の繋がりでね、他校に行くことになったんだ」
帰り道。
気まずい無言の中、自分とは違いちとせはあっけらかんとしていた。
ずっと秘密にしていたことが、バレてしまった。そのことに罪悪感を抱くこともなければ、悲壮感に暮れるでもない。バレてしまったなら致しかたない。そんな気楽さが隣から感じられた。
口を開いたのは、コンビニ袋から取り出したカフェラテに、ストローを刺したときだ。
「お嬢様学校に、軽音楽部の繋がり?」
「意外でしょ? わたしもお嬢様学校って言ったら、陸の孤島にある、全寮制淑女養成校みたいなイメージがあったから」
ストローに口を付け、ちとせは喉を潤す。
「でも実際は、全寮制でもない駅チカの徒歩五分。ですわ口調も、少なくともわたしは聞かなかったかな」
真理を思い出すと、確かにしっかり敬語を使えて躾がされていた。だからといって縁遠く感じるほどのお嬢様とは、いい意味で感じられなかった。
「サークルに入ってなかったけど、ほら、当時からわたしって多才でしょ? 目をかけてくれていた先輩が、折角だから一緒に行かないかって誘ってくれたの」
自らの多才さを、偉ぶることなく鼻にかけている。ちとせのこれは、そこまでいくと才能である。
「お母さんのことから、ようやく前を向けるようになっていた時期だったから。折角の話だし、お誘いに乗ったんだ」
「それでお嬢様学校にギターを持って殴り込みしたわけか」
「わたしこそが最強だって、お嬢様学校に名を知らしめる必要があったからね」
悪戯っぽく口角を上げるちとせは、ストローを向けてきた。差し出されるがまま一口飲むと、あのとき真理と一緒に飲んだ同じ味がした。
「それで、お嬢様学校はどうだったんだ?」
「施設のレベルが、私たちの学校とは段違い。流石のわたしも慄いたよ」
「慄いたのか」
「おにいもきっと、あれを見たら慄くね。あれは中学生には贅沢すぎる環境だよ」
ちとせの口から慄くなんて音が出るのがおかしくて、つい笑ってしまった。
「ビクビクしながら校舎案内をしてもらってるとね、聞こえてきたんだよ」
「聞こえた?」
「ピアノの音。ちゃんと扉が閉まっていなかったんだね。音楽室からあのメロディが聞こえてきたの」
どんなメロディかと尋ねる前に、ちとせはそのメロディを口ずさんだ。
それは一つの時代を築いた曲。母さんがよく、ギターを触る準備運動に鳴らしていたギターフレーズ。
「だから、つい吸い込まれるように音楽室に入っちゃったの。そしたらね、そこにいたんだよ」
◆
世界が止まったと、ちとせは語っていた。
ピアノの音を弾くのは、黒髪の少女。
音色こそあの学校に相応しいほどに美しくあっても、その曲は真逆をいくものだ。
なぜ、よりにもよってそんな曲を弾くのか。曲を詳しく知っている者ほど、そのギャップに戸惑いを覚えるだろう。
ただし、ちとせはその戸惑いを覚えることはなかった。
ピアノを弾く少女の顔が、ちとせにとって、あまりにもその曲に相応しかったからだ。
数ヶ月前に、亡くなったばかりの母。かつてアルバムで見た、幼き母の面立ちをそのまま残した少女がそこにはいたのだ。
ちとせの世界は止まった。
けれどピアノの音と共に、黒髪の少女の世界も止まったのだ。
姿形こそ違えど、その表情はちとせの鏡映しのよう。喉がふさがりなにも言えないとばかりに、大きく目を見張っていた。
「あ、あの……ごめんなさい」
喉が開いたのは、ちとせが先だった。
「その曲……お母さんの世界を変えた曲なんだ」
一人の世界へ侵入した、言い訳のようにちとせは言った。
「そう……」
仁美は息を吐くように答えるのみ。演奏を邪魔されたことに不快感があるわけでも、苛立ちを覚えたわけではない。茫然自失した我を取り戻せないだけである。
次にどんな声を紡げばいいか、ちとせが迷っていたところで、遠くからちとせを呼ぶ声がしたそうだ。後ろについていたはずの後輩がいないことに気づいた先輩のものだ。
先輩のもとへ戻ろうとしたちとせだったが、部屋を出ようとしたところ、意を決して振り返った。
「わ、わたし……ちとせ。宮野ちとせ」
名乗らなければいけない気がしたようだ。
向こうの名を貰いたいとは思っていなかった。それだけを言い残し、立ち去ろうとしたようである。
「仁美」
だからその背に、そんな声がかかろうとはちとせは想像だにしなかった。
「朝倉仁美よ」
その日の二人は、そんな自己紹介だけをして終わったそうだ。
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