07

 自分は今、慄いている。かつてお嬢様学校へ殴り込みへ向かったちとせより、身の置き所がない思いであろう。


 地上二十三階。


 ガラスの向こう側には、赤みが差してきた絶景が広がっていた。日が落ちきれば灯される人の営み、その綺羅びやかなまでの世界がすぐそこまで迫ってきている。


 高所恐怖症ではないので、その景色はきっと心に残るものになろう。


 だから問題は外にあるのではない。内側にあるのだ。


 シャンデリアで照らされるような豪華絢爛さではない。光の加減が気持ち暗い、アダルティなまでにお洒落空間。


 大丈夫か? ドレスコードとかないのか?


 そう慄いてしまうほどに、自分以外の客からスタッフに至るまで、その人間レベルの高さが伺えた。おまえはこの空間に相応しくないと言われているような、勝手な被害妄想に襲われていたのだ。


 身を縮こませている自分とは違い、秀一は当然として、真理もまた堂々としている。女子高生がこんな場所に連れられておいて、凄い胆力だと感心しそうになったがすぐに思い出した。真理は金持ちエリアに住み、お嬢様学校に通っている。こういう場所にはよく連れてこられているのかもしれない。


 通されたくの字のソファー席。その背もたれは自分の身長くらいある。それが人の視線を通さないことで、プライベート空間のような効果をもたらしていた。


 自分から奥に押し込まれ、そこから真理、秀一という順に座っていった。自分からは左手側に、秀一と真理からは正面に外の景色が広がっている塩梅だ。


 スタッフによってフルートグラスに注がれていく、発泡している白い飲み物。当然のように受け入れるところだったが、おいおい、という目線を秀一に向けた。


「大丈夫だよ、女子高生を連れ出した先で、アルコールを口にするのは問題だからね。今日はお酒はなしだ」


 どうやらノンアルコールのようであった。秀一の手回しは流石である。


 かくして自分たちはグラスを交わし、一口飲んだところで本題へと入った。


「それで、なんで今日は真理が?」


 ここにいるんだと問いかける。


 別にいて悪いわけでもない。むしろ男だけの聖夜にならず、ほっとしたくらいである。


 ただ秀一と真理は仁美を介しただけの仲。真理が線香を上げたときに、一度顔を合わせただけ。知り合い以上の関係ではなかったはずだ。


「お兄さんのおかげで、前に進む決心がつきました」


 秀一に答えを求めたのだが、口を開いたのは真理であった。


「音楽は止めないから、わたしのことは心配しないでって、仁美ちゃんに報告に行ったんです。秀一さんとはそのときに」


「線香を上げに来てくれたのを、また僕が迎えることになったんだ」


 どうやら亡くなった場所ではなく、直接仁美に会いに行ったところで、二人は再会を果たしたようだ。


「真理のことはトシから聞いていたからね。そのときに話を色々と聞かせてもらったんだ。僕の知らない仁美を沢山ね。だから今日は、そのお礼も兼ねて誘ったんだ」


 もたらされた解答に得心がいった。


 秀一の知らない仁美の一面。そのほとんどが自分を介して伝えたに過ぎない。ヒロさんに話を聞かされてはいたが、あれこれ話を聞くのは遠慮していた。


 そういう意味では、初めて秀一は仁美の話をできる相手を得たのだ。あれはどうだった、これはどうだった、と。もっともっとと、仁美の話を求められる。真理もこれを機会に本当の家族に全て伝えられ、背負っていた全てをおろすことができたに違いない。


 仁美は自分にとって血の繋がった妹。母さんが生んだ娘。けれど苦しんで惜しむほどの思い出はなかった。


 その思い出を持った二人とは、真の意味で気持ちを分かち合えてはいない。だから偉そうな占い師の蛮行に及べたのだ。


 仁美への思い出、それを持つ者同士が出会ったことで、共有意識が生まれたであろう。


 なにせお互いを名前で呼び合う仲にまで進展している。そのせいか、どこか親密な仲にすら見えてきた。


 秀一のハンサムっぷりは今更として、真理はその隣に並ぶに相応しい容貌だ。まさにお似合いの二人である。


 自分は邪魔ではないのか? このまま帰ったほうがいいのではないか? 自分はそもそも、一体なにしにここにいるんだ?


 そんな強迫観念が胸の底から湧き上がってきた。


「それに今回の件は、真理も無縁じゃない。巻き込むというわけじゃないけど、外野で心配させるよりは、全てを話したほうがいいと思ったんだ」


 が、どうやら当初の予定通り、今抱えている問題の話をするようだ。


 かくして真理に十二月の頭に起きた、朝倉家が襲来した騒動を語ったのだった。仁美はもういないと知ったときの父さんの悲痛な面持ち、そして秀一の母親が口にしてしまった願い。その辺りに差し掛かったとき、真理は口元を押さえるほどに、目頭を濡らしていた。


 あの場にいた者で悪い人間は一人もいない。それでも悲劇の一幕があの日、あの場で演じられていた。


 誰も悪くないはずなのに、なぜそんな悲しい思いをしなければならないのか。仁美の親友であったからこそ、真理はそのときの情景を思い描き、共感してしまった。


「父さんはちとせを、朝倉家に取り戻したいとは思ってはいない。自分の娘は仁美だけだと、ちゃんとわかってくれている。ヒロさんのおかげで、ようやく仁美への折り合いをつけられたくらいだ」


 真理はそんな秀一の言葉に、ほっと胸を撫で下ろすように安堵していた。


「……問題は母さんだ。ちとせは自分の娘だと、正しい形に早く戻すべきだと躍起になっている。それを諌めようものなら、おまえたちは家族を見捨てるのか、なんて言う始末だ。……それこそ仁美のことを忘れているくらいにね」


 だが、それはすぐに悲痛な面持ちへと変わっていった。


 ちとせがあの日語ったように、仁美が可哀想だ。最初からそんな娘など、いなかったかのようになっている。


「ちとせは今度のライブがあるからね。それが終わるまでは、余計な心労をかけないであげてくれって、なんとか大人しくさせた」


 疲れたような秀一の顔色。


 ライブ。ちとせはそれに秀一の母親を呼ぶと言った。オペラ歌手として世界へのキップが届きそうになったその人を、ロックバンドのライブに呼ぶのだ。


 大丈夫なのだろうかという思いが強い。秀一を介してライブに招待したが、かの母親はどんな心境なのだろうか。


「ライブについて、母親はなんて?」


「喜んでるよ。自分が進んだ世界とは違うけど、同じ音楽の道に進んでる。最近はひととせの曲を聞きながら、やっぱりこれは自分の血だってはしゃいでいる」


 空気が淀むほどの、嬉しくない喜びである。


 ちとせの歌声は、ヒロさんが天性とまで呼んだものだ。血に宿ったものだと、やはり自分の娘だと盲目的になってもおかしくない。


 だが、ひととせの曲は決して、ちとせ一人で作り上げたものではないのだ。本当であればそれを知らさなければならないのだが、


「本当だったら、仁美が作詞作曲をやっていたことを教えたいんだけど……」


「ちとせが口止めしてきたからな。なにを企んでるのか全くわからん」


 仁美がやってきたことを隠すよう指示してきたのだ。そのせいで秀一の両親は、仁美がひととせに関わっていることを未だ知らないでいる。


 ひととせの手柄を独り占めしたいわけじゃないのはわかっていた。むしろ教えることこそが正しく、ちとせもそれを望んでいるはずだ。


 なのにちとせは口止めしてきた。今のちとせがなにを企んでいるのか、占い師の力を持ってしても見抜けずにいる。


「あ、そっか」


 と、男二人がちとせの企みに頭を悩ませているところ、得心がいった声があがった。


「真理……もしかして、あいつの企みがわかったのか?」


「はい、わかっちゃいました」


 悲痛な面持ちから一転、真理の顔には微笑が浮かんでいた。かつての空元気から生まれるものではなく、彼女の本来の持ち味からくる、明るさに満ちたものだった。


「でも内緒です。わたしの口から告げていいものではありませんから」


 かつてのような、重荷を背負ってきたそれではない。楽しみにしてろという、悪戯を企んでいるような子供のそれである。


 企みを知らせてもらえない野郎二人は、揃って顔を見合わせ肩を揺らした。

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