09

 秀一の顔に浮かぶのは見下げ果てたそれではない。呆れ果てたそれでもない。諦めたそれである。もうこいつに期待なんてしてはいけない、と。


 ぶるりと身体が震えた瞬間、一気に込み上がってきたこの尿意。強制開門まで三分といったところか。


 道を行きながら左手側に置いていた公園に慌てて入る。


 遊具を一角に置いたその公園は、緑に溢れ、その向こう側にまで見通しがきかない。子供たちだけではなく、大人の散歩に相応しい広さを誇っていた。


 つまり、トイレがパッと目につかなかったのだ。


 街灯になるべく照らされぬ、木々の中に紛れ込みながらズボンを下ろした。


「刑事の息子が軽犯罪を起こしている」


 同じく木々に紛れ込みながら、おかしそうに秀一はからかってきた。


「いいんだよ。我が家の不良刑事は、未成年の飲酒に目をつむるからな。覚えておけ。警察の身内の不祥事は、そうやって隠匿されていくんだ」


「ははっ」


 軽口を打ち返されて、秀一は愉快そうに声を鳴らした。


 店では一度もトイレに立たず、ビールを飲み続けてきたツケだ。放水が終わる目処が立たない内に、その足音が聞こえてきた。


「見つかったらまずいよ、女の子だ」


 自分からは見えないのを知ってか、秀一がくすくすと笑いながら忠告する。


 女の子というくらいだ。時間を鑑みて、おそらく中高生の娘を指しているのだろう。


 公園内の舗装された道を行く女の子。塾の帰りか、学校に遅く残らざるえなかったのか。はたまたこの時勢にも関わらず、遅くなった遊びの帰りか。


 公園内とはいえ、舗装された道沿いに街灯が立ち並んでいるわけではない。こんな暗がりを一人で行くなんて、中々の胆力である。


 事件を他人事だと捉え、自分だけは巻き込まれない、なんて甘い考えがあるのかもしれない。




 ――いつだってその拳は、そんな甘い考えをした者を探しているのだ。




 放水が終わり、ズボンを正そうとしているときだ。


 タッタッタッタッタ、と。


 静寂な公園に響き渡る、地を蹴る跫音。


 映画でしか聞いたことのない鈍い打音が響いたと思えば、駆け抜けるかのように遠ざかっていく。


 なにか起きたのか。そう思う前に、


「トシ、この娘を頼む!」


 ベルトを締め終わらんとする自分を残し、秀一はその跫音の後を追っていった。


 この娘を頼む?


 なにを頼むのかと、木々から道沿いに顔を覗かせると、それは目に入った。


 制服姿の少女が、俯向けて倒れ込んでいる。


 慌てて駆け寄り、抱き起こそうとする自分を制した。


「大丈夫か!?」


 明らかに大丈夫ではない。いざこういう場面に遭遇すると、そんな声しか上がらないのを思い知った。


 返事はない。


 女の子の顔に耳を近づけると、どうやら息はあるようだ。


 秀一を追わなければという思いもあるが、女の子をこのまま放っておけない。


 そんな自分にもたらされた、キャンキャン、という鳴き声。


 振り返った先に、三十路くらいの男女二人の影があった。リードを引っ張られながら、ちわわによって導かれてきたのだ。


 彼らは自分と倒れた女の子に気づくと、小さな叫声を上げる。


 今、なにが起こっているのか。


 長々と説明せずとも、たった一言でこの事態を表せられる。


「ノックアウトゲームだ!」


 仁美の命を奪った通り魔事件。


 その犯行の瞬間に立ち会ってしまったのだ。


「すぐに救急車を! 指示があるまで絶対に触らないで!」


 まくし立てるように手短な指示を出すと、立ち上がり二人に背を向けた。


「ま、待ってくれ、君は?」


 男性のほうが動揺しながらも、そんな声を上げる。指示だけ与えながら、なぜこの場から去ろうとしているのかと。


「友達が犯人を追ってるんだ!」


 それだけを言い残し、自分は秀一の後を追ったのだった。




     ◆




「ヒデ、どこだ!?」


 叫声を張り上げながら走り出す。


 近所迷惑なんて考えている場合ではない。もしかしたら警察を呼ばれる案件かもしれない。


 それでいい。むしろパトロールをしている警官が、この声を聞いて駆けつけてくれるのすら願っている。


 舗装された道沿いを、あっという間に駆け抜けた。


 公園を脱した先で待っていたのは二択である。右か、はたまた左か。


 土地勘のない場所で、犯人が通りそうなルートなどわかるわけがない。だから直感に従い、大通りに出そうな左を避け、右側へと駆け抜けた。


 それが正解であったことは、すぐにもたらされる。


「……っか! ……った……!」


 静寂な住宅街に似合わぬ叫声が、すぐに耳へと届いた。


 なにを言っているのだと耳を傾けている暇はない。叫声に導かれるがまま走り抜けると、秀一を見つけることができた。


 コンクリートの歩道で、上体だけを起こしているその姿。犯人らしき男に馬乗りになっているのだ。


 肉を叩きつける鈍い音。


「おまえがやったのか!」


 何度も何度も必要に、叫声に紛れながらもその音は耳に届いた。


 街灯の直下。スポットライトに浴びているかのように、ドラマで見るような一幕が演じられていた。


「おまえが仁美を殺したのか!」


 組み伏せた相手に、必要にその拳を振り下ろしているのだ。


 初めて見る秀一の暴力性。


 遠目でそれを目の当たりにし、ついこの足が止まってしまった。


 駆け寄らなければいけないとわかっているのに、止めていいものかとすら頭によぎってしまった。


 だからそれを止めなければいけないと思ったのは、秀一の拳が止まってから。


 その両手が、組み伏せた相手の喉元を襲ったのだ。振り上げられることなく、強く押し付けている。


 文字通り、殺すつもりで。


「ヒデ!」


 首を締める秀一の両手。それに足掻いていた手の抵抗が止み、力を失ったところで現実に引き戻された。


 秀一に駆け寄り、羽交い締めにして無理やり引き離した。


「止めろヒデ!」


「離せトシ!」


 身を捩らせながらも、その両手はなおも気絶した相手の首元に伸ばさんと必死だ。


「このままだと本当に死んじまうぞ!」


「それのなにが悪い!」


 力強い抵抗だった。


 スポーツを嗜んでいる秀一とは筋力と体力が違う。衝動に促され、なりふり構わない秀一に負けるのはそう遠い話じゃない。十秒も持たないだろう。


「こいつは殺してやる!」


 怒声を持って、明確なる殺意を秀一は示した。


 ようやく全てを吹っ切れた。


 折り合いもついた。


 仁美がいなくなった世界。ようやくその世界で行きていく決心ができた。


 きっとそれは嘘ではない。秀一の本心から出ていたものだと確信して言える。


 だけど、その憎悪までが消え去ったわけではない。


 ノックアウトゲームに興じる、正体不明の犯人。


 届かないものなら仕方ないと、諦めていたそれが目の前に現れた。追い求めていた、もう一つの真実がそこにはあった。


 なら秀一を突き動かすそれに迷いはない。その機会があるのならば、必ずやり遂げんとしたもう一つの決心。


 復讐者として動き出すときが来たのだ。


 どうやってこんな男を説得すればいいのか。


 社会的道徳性や倫理観など説くなど意味はない。


 なら占い師として、仁美の想いをまた騙るか?


 だが、そんなものでは秀一は止まらない。


「離せ、離せトシ! 殺してやるんだ! こいつだけは僕の手で殺さなきゃならないんだ!」


 なにせ殺意を吐き続けるそこには、仁美の敵を取るという言葉がないのだ。


 これは誰かのために果たしたい願いなどではない。自己満足にすら等しい復讐心なのだ。


「頼むヒデ……」


 だから自分の口から自然と漏れ出したのは、


「母さんの子供を、人殺しの妹にしないでくれ」


 紛れもない自分の本心だったのだ。


 怒声を上回る叫声なんかでは決してない、小さな音で漏れ出したその願い。


「あ、ぁ……」


 秀一は喉が潰れたような唸り声だけをあげた。


 束縛から開放されんとあれだけ足掻いていたその力。糸が切れたかのように、跡形もなく失っていた。


 離すとその場で膝を付き、広げた自らの両手を秀一は見下ろしている。そしてそのまま、両手で顔を覆ってしまった。


 自分の言葉を、どんな思いで受け取ってくれたのか。その胸中を察することはできない。


「あぁ……」


 ただ「仁美」とだけ呼び続け、その慟哭はいつまでも寒空の下に響いたのだった。

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