05
仁美の謎を追おうにも、あれから手がかりもなく、日々だけが無為に過ぎ去っていく。
突き止めねばならぬ謎があるとはいえ、自分たちにもまた、大学生としてやらねばならぬことが多い。仁美の謎にばかり、時間をかけていられない。
自分は、単位を最低限だけに抑える綱渡りはしない。毎日真面目に講義に出席し、空いた時間にバイトをいれる。そこに飲み会と合コンに精を出せば、それなりに忙しい大学生活となるのだ。
秀一もまた、医学部らしく忙しい日々を送っている。バイトこそしないが、飲み会や合コンもしているとのことだ。自分とは違い撒き餌としての活躍に勤しんでいるらしい。秀一も秀一なりに、蔑ろにできない人間関係を持っているのだ。
よっぽどの新情報もない。大学で時間を合わせることもできるが、わざわざ顔を突き合わせて交換する情報もない。ポエム帳はあるが、あれは故人の名誉のためにしばらくは封印である。
だから秀一から会わないかと連絡があったのは、実に一ヶ月以上ぶり。六月の仁美の月命日以来である。
なにか新情報が出たわけではない。自分たちの妹が生まれた場所を、見に行かないか、というお誘いである。そこで新しい情報を得られると思っている様子もない。ようは久しぶりに会おうという面が一番強いのだ。
それが八月に入ったばかりの、初めての日曜日のことである。
朝からちとせはスタジオへ向かい、父さんは休日出勤に勤しんでいた。
一週間前、ノックアウトゲームの新たな被害者が出ていた。そのせいかまた、父さんは忙しそうにしている。
秀一の顔を二人に見せたくはない。鉢合わせる可能性はないだろうが、車を出してくれる秀一と待ち合わせたのは大学の近辺であった。
「……わかってはいたけどさ」
駅前で秀一と合流し、旅のお供をコンビニで補充した自分を待っていたのは、ピカピカな銀のセダンである。朝倉家ではなく、秀一個人が乗り回す愛車である。
車に詳しくなどないが、
「金持ちの車だ」
一目で見てわかるほどの高級車だった。エンブレムから察するに外車である。
「親のお下がりだよ」
立ち尽くし、助手席に乗るのを躊躇している自分に、秀一はそう言った。
お下がりでこれだけの車をポンと与えられるとは、流石は医者の息子である。おそらくこれを売却した値段で、我が家のマイカーを新車で買ってもおつりがくるだろう。
アイスコーヒーから流れる雫を、シートに垂れないよう恐る恐る乗車した。こんな安物をこれほどの車のドリンクホルダーに置いていいのか判断つかず、両手でしっかりホールドする。そんな未開の地からやってきた原住民を、秀一はおかしそうにしていた。
ともあれ、高級車秀一号は発車した。カーナビを弄る様子がないことから、秀一の頭には目的地のルートが入っているのだろう。
初めの五分こそ、新しい玩具を与えられたように感動していたが、すぐに慣れた。慣れたというより飽きた。所詮は車に興味がない庶民である。特筆すべきは乗り心地が良いだけであった。
道中、仁美の話はなかった。
大学であった話をああでもない、こうでもないと駄弁りながら、巡り巡って秀一のモテ男ぶりに遺憾の意を表明したくらいだ。僻みとも言える。
まるで昔なじみのように軽口を叩き合いながら、走り出して三十分くらいか。赤信号以外は止まることがなかった車の、エンジン音が止んだのだ。
ガラガラの駐車場。どうせ誰もいないんだしと、バックをすることなく、頭から入って駐車した。
「ここか……」
目に映るのはピンク色を基調とした建造物。産科婦人科クリニックという看板の前には、有り触れた二文字が載っている。おそらく、このクリニックの主の姓だろう。
秀一いわく、病院ではないらしい。クリニックの名が付く通り診療所だ。病床や管理者や法律など持ち出し、難しいことを語っていたが、ようは町に根付く、住民にとってのかかりつけ医院とのことだ。
「ああ、ここから始まったんだ」
なにを、とは秀一は言わない。妹たちの誕生から始まり、狂わされた運命。それは妹たちの人生だけではなく、自分たちの人生もまた大きく変わった場所でもある。秀一の言葉に付け加えるものがあるとしたら、全て、である。
日曜日ということもあり、今日は休業であった。
産科ということもあり、中には出産を控えた母親たちと、それを支えるスタッフの方たちがいるのかもしれない。ただし、それを外から窺うことはできない。
自分たちも当時の様子を聞ける人を探しに来たわけではないのだ。話を聞けたところで、探偵から得られる情報以上のものは出てこないだろう。出てきたとしても、自分の妹たちが入れ替わった理由が補強されるだけだ。DNAまで調べたのだ。今更補強されたところでなんの意味もない。
ただ、なにかをせずにはいられない。それだけの思いで、今日ここにいる。
そうやって、男二人寄り添い車の傍で始まりの場所を見上げていると、
「君たち」
そんな声がかかった。
振り向くと、そこには四十代ほどの男が一人。人の良さそうな顔をした、少し頭が寂しいその人は、このクリニックの医師であろう。でなければ、こんな場所で白衣なんて着ていないはずだ。
「うちに、なにかようかな?」
人の良さそうなその顔とは裏腹に、その目には猜疑の色が宿っていた。
建物にも目もくれず、ぺちゃくちゃ喋っていたら、常識のない若者が勝手に車を止めているだけで済んだかもしれない。だが兄弟にも見えない若者二人が、産科婦人科クリニックの名を掲げた建物を見上げ、思い馳せているのだ。そんな二人を、不審者以外の呼び方があるのなら、誰か教えて欲しい。
秀一と顔を見合わせ、苦い顔をしながらアイコンタクトを取る。顎を少し上げ、秀一に全てを任せた。
「……僕たちの妹が生まれたとき、ここでお世話になったもので」
「ほう、そうだったのか」
医師は、なんだそうだったのか、いやいやよく来たねと頬が緩んだ。わけがない。その目は鋭さを増し、余計猜疑心が募らせていた。
当然だ。いい男二人が、妹誕生の地で訪れ思い馳せているなど、誰が信用できる。これで納得する者がいたら、それは連帯保証人の意味も知らず、パパっと書いてしまうような愚か者だろう。
秀一からアイコンタクトを送られる。その目はもう、自分たちの関係を白状するしか道はないと語っていた。
仕方ないと、自分は首をコクリと振った。
「十六年前、早産の夫婦が二組、続けてこちらに駆け込んできたと思うのですが……ご存知でしょうか?」
「十六年前……」
医師の目は見開いた。思い至った彼からは、猜疑心が消え去っていた。
「もしかして、朝倉先生のご子息かい?」
「はい」
頷く秀一に、そうかそうか、と医師は破顔した。
同じ医者として朝倉家のことはよく覚えていたのだろう。今やその目は、親戚の子供へ送るそれへと変貌していた。
「いやいや、あのときの男の子が今やこんなにも大きくなっているとは。私も歳を取るわけだ」
すっかり好々爺然としたその医師は、秀一の両肩に手を置いた。何度も何度もポンポンと、秀一の成長を喜ぶように叩いていた。
秀一への対応はひとまずそれで満足したのか、その顔は自分へと向けられた。
「じゃあ君は、朝倉先生たちより一足先に駆け込んできた、ご夫婦の息子というわけか。えーと、確か……」
「宮野です。その説は、家族がお世話になりました」
「そう、宮野さんだ。いやはや、これまた懐かしい過去が、訪ねてきてくれたものだ」
改めて、互いに自己紹介をした。
自分たちはたまたま大学で友人となり、昔話をする中で、一緒のタイミングで医院に駆け込んだ家族同士だと知った。今日はドライブをしていたら、たまたま近くを通りかかったので、車を降りて思い出話をするに至ったと。
一方、このクリニックの院長であるらしいこの先生の姓は、看板が示す通り。ただし婿養子らしく、当時の姓は違ったようだ。
「あのときは大変だったよ。ただ続けて駆け込んできたわけじゃない。先代が出払っている、僅かな隙を突かれたんだ」
懐かしみ親しみを向けてくれるだけあり、十六年前の当事者だったらしい。当時、まだ若かった先生が、この緊急事態を取り仕切るはめになったようである。
診療時間が終了したとはいえ、さあ、帰るか、となるわけではない。診療後もやることはいくらでもある。時刻は六時半過ぎ。先代の院長が一時間ばかし出てくると、外出した直後であった。妻が破水したと、鬼のような形相をしたゴリラがその門を叩いたのだ。
まだまだ若く、経験が足らないとはいえ、先生は産科の医師である。新たな生命の誕生を目の前にし、泣くことも、逃げることも、恐れることも、慌てることもせず、その妊婦を医院に招き入れたのである。
そして三分後、新たな破水した妊婦を前にし、泣いて逃げ出したくなり、恐れ慌てふためいたという。院長、早く帰ってきてくれと、百回は心の中で唱えたとのこと。
先代の院長が帰ってきたのは、全てが無事終わった後らしい。
「僕らの妹は、揃ってとんでもない隙を突いたものだ」
今となっては懐かしむべき笑い話。秀一と揃って、当時の思いを語る先生の話に笑ってしまった。
「人生最大の修羅場だったよ」
おかげで胆力が付いたとまで、先生は言っている。あれから幾度となく母子ともに危険な場に立ち会ったが、あのときと比べれは大したことはないと、落ち着いて臨んできたようだ。
「どうだい、お母さんと妹は元気かな?」
それはどちらか片方ではなく、自分たち二人に問いかけられたもの。
あのときの母子は、既に一つずつ欠けている。今や良い思い出となった先生に、それを伝えるのは気が引けた。
「ええ、おかげさまで、妹は元気にしています」
だから秀一に口を開かせる前に、自分は言った。
「妹は……?」
不思議な返事だとばかりに、先生はその言葉を拾った。
「母は自分が高校へ上る前に、事故で」
先生は、その目を大きく見開いた。
「そうか……それは残念だ」
その意味を受け入れると、社交辞令のお悔やみの言葉を述べるではなく、自らに言い聞かせるように肩を落とした。
先生は天にこそ母さんの命は上ったとばかりに見上げた。
「私にとっての、あの大事件から五年後くらいだったかな。君のお母さんと話す機会があったんだ」
「母さんと?」
思いがけない言葉が出てきて、目を丸くした。
「まさに今、君たちに声をかけたように。この医院をずっと見上げていたから、声をかけさせてもらったんだ。そしたら、あのときのお世話になった者ですと言われて、驚いたよ」
驚いたというが、きっとあの破顔を見せたに違いない。
「思い出話をする中で、すぐに朝倉先生の娘さんの話になったよ。ある意味、我が子と同じ星の下で生まれた子だ。ずっと気にかかっていたようでね。色々と話を聞かれたよ。元気にしているのかとか、どんな家の人だとか。今はなにをしているのかってね」
当時の母さんとの思い出を先生は懐かしみ、口にする。
自分はそこに、ある種の直感が働いた。秀一を横目で見ると、同じような思いを胸に抱いたようだ。
「守秘義務もあるからね。あまり詳しくは教えてあげられなかったが、朝倉先生が娘を可愛がっているのは、年賀状のやり取りだけでよく知っていた。幸せな家庭で育っていると教えたら、満足そうに笑って帰っていったよ」
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