三十八話 ヤタカガミ1

「シーナ!」


 つかまれた手の先にいたヒウチと目が合ったとき、椎名は何が起きているのかわからなかった。

 どうして現界げんかいから鏡界きょうかいに行くことになったのか、記憶があいまいだ。しかし、ヒウチに引っ張り上げられた場所が中央府の鏡張みばりのみずうみであることはわかった。今、じぶんが何をすべきなのかも。


「ヤタカガミを、張ります」


 湖のふちに立つ人影がいくつか見える。いや、真っすぐ立っている人は誰もいない。二人、あるいは三人で肩を貸し、支え合っている。明らかに彼らは、極度に疲弊ひへいしていた。それでもヒウチは、鏡界に着くなり椎名がそう言うのを聞いて、顔を歪ませた。


「シーナ、本当に申し訳ない。私たちの勝手で返したり呼んだりして。ましてや、この期に及んでヤタカガミを使わせるために……」

「大丈夫です」

 椎名はヒウチの言葉をさえぎる。鏡界に着いたときから、椎名の心は決まっていた。

「わたしは、ヒウチさんたちにお世話になりました。これくらいで恩返しになるのかはわかりませんが、やれるだけやってみます」

「シーナ……」

「わたしは、じぶんが撒いた種を刈り取りにきたんです。ヒウチさんにもう一度会えて、よかったです」

 それだけ言ってから、椎名は湖に向き直った。ふつふつと、湖のあちこちから泡が浮かぶ。ヒウチがそれ以上何か言う前に、強く念じる。


 ——もとの世界に、帰って! わたしは、これが終わったら、鏡界こっちのみんなを護りきることができたら、現界そっちに戻るから——


 瞬間、湖全体を強い光が包んだ。閃光弾が弾けたかのようにまばゆい光に、周囲にいた賢者たち、候補生たち、ヒウチはバランスを崩す。誰もが目を開けられない中で、椎名だけが光の向こうを見据えて立っていた。

 光の中にいても、椎名にはなぜか周りの景色がはっきりと見えていた。さきほどまで泡を立てていた水面は凪ぎ、この世のものとは思えぬ影は去っていた。


 ——いける——


 強い確信を持ち、水面を見据えてヤタカガミを維持し続ける。

 椎名は湖を見張り、ヒウチたち中央府の盾者たちは光に阻まれて何も見えない。故に、空の異変に気づいたのは、遥か北にいるソウヤだった。


    ○ ● ○


「空が、近づいてる」


 北府の湖面に力を与えつつも視野を広く保っていたソウヤは、無意識に声に出していたことに気づき顔をしかめた。

 二つの世界の入り口である鏡張りの湖からの侵入は、確実に防げている。しかし、それはあくまで「ゲートの位置を離した」だけのことなのだ。ソウヤは今思い知った。出入口を離すだけでは、世界そのものの接近を止められないのだということを。


「このままじゃ、サラが戻る世界が無くなる」

 椎名がこちらの世界に来ていることは、空気の揺らぎから何となく察知していた。世界がぶつかったら何が起こるのかはわからないが、少なくとも、鏡界と幻界を行き来するということはできなくなるだろう。それに、自分と違いヤタカガミを使い慣れていない椎名が、これ以上カガミを出し続けて身体が持つとは思えなかった。そもそも、数時間ヤタカガミを使い続けたソウヤは確信していた。


 ヤタカガミでは、世界の衝突は止められない。


「ソウヤ様! ただいま戻りました」

 見張り台の真下から声がかかり、ソウヤは意識を湖に戻す。

「おつかれさま。ちゃんと休んだ?」

「問題ありません! ソウヤ様のおかげで、十分休養をとることができました」

「こちらの首尾はいかがでしょうか」

「うん。ずっとヤタカガミを張ってたから、しばらく大丈夫だと思うよ。後はがんばって」

「はい! ここからは私どもが責任を持ってお護りいたします」

「じゃあよろしく」

 ソウヤはとん、と見張り台の手すりに足をかけた。そのまま助走もつけずに空に飛び上がる。

「ソウヤ様!」

「ちょっと出かけてくる」

 北府の賢者たちの困惑の声を気にせず、空を駆ける。

 青のグラデーションに囲まれる、生命の存在を感じない空が、ソウヤは好きだった。しかし、今の空は静謐せいひつとは程遠い。薄灰色の四角い建物に、そこから頭一つ抜けたタワー。チカチカ瞬く、星とは明らかに異なる光。陸を動き回る自動車、人間。大人と子どもの区別が容易につくくらい、人間の姿がはっきりと視認できるようになっていた。


 ——こんなに騒々しい空、僕はいたくない——


 唇を噛み締め、ソウヤは一直線に飛んだ。上空からも視認できる巨大な天幕の脇、塔になっている場所のテラスに飛び込む。

『父さまは?』

 手すりに止まっていた烏に問いかけながら、ガラス越しに部屋の中をうかがう。

「何の騒ぎだ、ソウヤ」

 父王ビエイの声から場所を正確に判断し、ソウヤは跳ぶように階段を駆け下りた。地下の書斎でその姿を認めた瞬間、声を張り上げる。


「父さま!僕に神術を教えてください!」


 机に向かい何かを書き付けていた父王は、わずかに目を伏せた。

「限界、か」

「父さま!」

 なおも言い募ろうとするソウヤをで制し、顔を上げる。そこにはもう、何のためらいも含まれていなかった。

「ソウヤ。中央府に行くぞ。神術の話はその道中でしよう」

「っ、わかりました」

 今まで、ソウヤの望みがここまであっさり聞き入れられたことはなかった。中央府に行くという条件が気になるが、今はそこに突っ込みを入れる場合ではない。もし意に添わなければ、道中で話を聞いてから引き返してくればいいだけだ。


 それに、中央府には彼女がいる。もう一度、こちらの世界で、言葉を交わすことができる。


 ——待ってて、サラ——


「急ぐぞ」

「はい」


 表に出た父王にならい八咫烏の姿に変化したソウヤは、足場を作ること無く騒々しい空の下に飛び出した。

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