三十二話 ふたつの世界1

 椎名は机の前で大きく伸びをした。


 今までが夢だったのかと思うくらい呆気あっけなく、現界の生活が戻ってきた。前にヒウチから聞いていた通り、椎名が鏡界きょうかいにいた間……現界げんかいから姿を消していた間のことは周囲の人々の記憶から抜けているらしく、何の違和感もなく家にも、中学校にも戻ってくることができた。むしろ大変だったのは勉強の方で、塾で先回りしていた分学校の方は何とかなったものの、塾の遅れは必至だった。

 数か月前の映像授業を見たいと頼んだときにはいぶかしげな顔をされたが、勉強したいという頼みを塾講師が断ることはなかった。学校帰りにテキストと映像を突合せて、どうにか頭に入れていく。

 勉強は嫌いではないし、いるだけでイライラする教室にいるよりも、塾の映像に没頭しているほうが精神衛生上ましだった。実際に、勉強に没頭していたおかげか、以前よりもクラスメイトを見てイライラすることが少なくなった。


 ――いや、それだけじゃない――

 椎名はヘッドホンをつけたまま、ここ最近の自分の姿を反芻はんすうする。


 ――盾……いやを扱う感覚。他者を拒絶するのではなく、自分を守るための力を磨く。クラスのいざこざが気にならなくなってきたのは、あの感覚を意識してからだ――


 現界で盾を扱うことはできないようだ。こっそり試してみたが、目の前の風景が変わることはなかった。

 それでも、盾を扱ったときの感覚ははっきりと覚えている。他者を拒絶する攻撃的な力は、自分をも傷つける。しかし、自分を守る包容力あふれる力は何者をも傷つけることなく、自らの心身を保護する。クラスで不快な場面を見かけたとき、話のかみ合わないクラスメイトから話しかけられたとき。椎名は心の中で盾を作った。対象の時間を巻き戻すヤタカガミを。実際に彼らが身体を引くことはない。それでも、ただ想像するだけで椎名と相手の間には見えない距離ができる。そして距離が開いた隙に、椎名は一呼吸おいて落ち着くことができるのだ。

 落ち着くための力を与えてくれた、ヒウチやソウヤには感謝してもしきれない。


「もう、会えないかもしれないけれど」


 思わず口に出したことに気づき、慌てて周りを見渡す。映像視聴ブースに誰もいないことを確認してから、席を立つ。今日はこれ以上集中できそうにない。机の上に散らかしたテキストを片付けながらも、思考はとめどなく彷徨さまよう。

 たくさんお世話になった鏡界の人たちに挨拶することなく、こちらの世界に戻ってきてしまった。鏡界で現界の景色が見えたから、時間がないというアツマの話を信じて湖に飛び込んだ。しかし、せめてヒウチたちにお礼をいう時間があってもよかったのではないか。いまさらながらアツマに苛立ちをおぼえたが、こちらから鏡界に行くわけにはいかない。


 ——わたしが鏡界に行ったら、本末転倒だよね——


 塾から家までの道のりで、水たまりを見つけるとつい目を留めてしまう。ヒウチの話では、波の立たない美しい湖が向こうの世界を映しとるとき、鏡張みばりのみずうみとなって二つの世界を繋ぐ。ひっきりなしに水紋が立つ路面の水たまりが繋がることは無いと思いつつも、視界に入ってしまえば目で追わずにはおれない。繋がっていたところで、椎名が通り抜けることはできないのだが。

 椎名が後ろ髪を引かれつつ通り過ぎた、線路沿いの小さな水たまり。人通りの少ない場所にあるそれに、現界にはいるはずのない五つの影が映しだされた。



    ○ ● ○



「事態は、思っていたより深刻なようだの」


 通信盾の向こうで重々しく口を開いたミネに、ヒウチはゆっくり頷いた。

「私も、正直なところ北方王朝の眉唾まゆつばな情報だと思っていましたが。ここまで影が近づけば、シウラでなくても気づきます」

「シウラの勘が悪いほうにあたりましたね」

 トカワの言葉に、シウラはわずかに顔をしかめる。トカワも冗談を言ったつもりはないらしく、それ以上言葉を続けることはしなかった。その結果、重い空気を打開したのは今まで口を挟むことなく話を聞いていたカササだった。

「俺たちがこの場で黙りこくっていても仕方ないだろう」


 ヒウチはおろしていた目線をあげる。鋭い目線のカササと盾越しに目が合った。

「空には幻界げんかい? らしき影が見えている。人だったり、家らしきものだったりがわかるな。一方で、鏡張りの湖には迷い込む人々が後を立たない。俺のところ南府はそこまで深刻な報告を聞かないが、状況が深刻なのは北府と中央府か?」

 を冷静に分析し、守護者の務めを果たそうとするカササの言葉に、ヒウチは少し落ち着きを取り戻した。

「私のところは、一時間に二~三人だ。今までは一週間に一人くるかこないかだったから、ペースは明らかに速まっている」

「俺のところもヒウチ殿と同じくらいだ。実数としては一時間に一~二人だが、北府の湖は中央府よりも小さい。ヤタカガミを毎日数回発動している。賢者たちは疲労困憊ひろうこんぱいだ」

「であれば、北府のほうが頻度が高いと判断すべきでしょうね」

「ああ」

 トカワの分析に首肯を返して、カササは話を進める。


「今はまだ何とかなっているかもしれないが、このままだと賢者たちの体力が尽きるのも時間の問題だ。北方王朝の力を借りることはできないのか?」

「無理だ。シーナのいざこざがあって、ソウヤ殿は謹慎中。王は今回の対応策がないか、過去の事例をあたられている。ヤタカガミを扱うことができるのは、王家でもあの二人だけだ」

「やっぱり、王朝を頼るわけにはいかねえな」

「カササ」

 やや口が悪くなったカササをミネがたしなめる。カササは小さく肩をすくめてから、みたび真剣な顔に戻る。


「現任の賢者が疲労困憊。北方王朝は頼れない。だったら、もう候補生に手伝って貰うしかないと俺は思うが」

「それはっ」

「そうだな」

 抗議の声をあげかけたヒウチを、シウラがさえぎる。

「北府は、守学校にいる候補生たちに手伝ってもらう。学生の動員は気が進まないが、世界が無くなってしまっては元も子もない」

「未熟な学生よりは、賢者を引退した方々を呼んだほうが、よいのではないでしょうか」

 否定のニュアンスを含んだトカワの言葉に、しばらく考えていたミネが首を横に振る。

「補助として呼んでおくのはありだがの。各守護府に八咫ノ銅鏡やたのどうきょうは十枚ずつしかない。引退した賢者たちがヤタカガミを使うには、現役の賢者か、研修生から盾を借りることになる。交代要員にはなっても、増員要因にはなりえない」

「いずれにせよ同時に盾を張ることができるのは、各守府最大で十名、か」

「現時点では、交代要員が居るのに越したことはない。中央府は至急呼び寄せ、今後の対応増加に備える」

「北府も同様の対応を取る。だが、北府の賢者経験者は各地の護りについている。呼び戻したとて間に合うかどうかは微妙なところだ。候補生たちの助力依頼が先だ」

 カササだけではなく、シウラからも鋭い視線を向けられ、ヒウチは観念した。

「わかった。中央府も守学校に依頼する。シウラの言うとおり、住む世界が失われれば生存すら危うい。守護者として、それは防ぐ」


 ヒウチの答えに、画面の向こうの四人が頷いた。

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