三十一話 宵闇の鏡2

 遡ること数時間前。


 椎名は、木々がこすれる音と人の気配で目を覚ました。背中がわずかに揺れるが、身体は動かない。目を開いているはずなのに視界に入るのは暗闇ばかりで、起きているのかねているのか判断が付かない。と、顔の前の暗闇が次第に薄れていく。薄暗い中でも木々が生え並び、ざわざわと音を立てているのがわかる。木々の影を遮るように顔を出した影をみて、椎名は我に返り起き上がろうと身をよじった。


「ごめんなさい。もう少ししたら、身体の拘束も解かせていただきます」


 本当にすまなさそうに告げるアツマを、椎名はにらみつける。

「なんの、つもりですか。こんな、ヤタノカミみたいなやり方をして」

 一瞬、椎名を委縮させるがおそった。アツマはわずかに首を横に振る。

「市井にいるヤタノカミの錬度は、ここまで高くは無いはずです。貴方をこのようにしたのは父上のご命令であり、私の意思でもあります」

 もしかして、あちこちで椎名を攻撃してきたヤタノカミたちは、アツマの手先なのではないか。そんな疑念が首をもたげたが、今は別のことの方が重要だった。

「王さまの、命令?」

「はい。シーナさんには、知っていただいた方が良いと思います」

 そこで、アツマは王がヒウチにしたのと同じ話を椎名に告げた。


「……つまり、これ以上世界が近づいたら、ソウヤが命と引き換えに神術?を使わないといけないってこと?」

 椎名は胡散臭さを感じつつも、確認を入れた。アツマへの不信感から、敬語が抜けていることにも気づいていなかった。

「はい。それを防ぐためには、一刻も早くシーナさんには幻界にお帰り頂かなければなりません。それに……」

 アツマは下を向いた。

「私は、才能ある弟をこのような形で失いたくはありません」


「本当にそう思ってる?」


 先ほどからアツマの言葉を信じきれない椎名は、思わず食って掛かった。

「あなたたちが失いたくないのは、ソウヤの能力であってソウヤ自身じゃない。そうじゃない? ソウヤ自身が大切にされていて、今の暮らしに満足していたなら、あんなに鏡界から出たがることもないし、わたしを鏡界に連れてくることもなかった。わたしはここに来るまで、お父さんの話もお兄さんの話もソウヤから聞いていなかった。そんなあなたに失いたくないって言われても、信用できない」

「シーナさん……」

 しばらく絶句していたアツマは、腰をかがめて椎名と目を合わせた。


「ソウヤと、ソウヤの話しか聞いていないシーナさんには、そう思われても仕方がないのかもしれません。私と弟に力の差が大きくあり、父上がそのことを気にされているのは事実です。しかし、その力故に、世界を切り離す術はソウヤにしか使えません。

 世界がぶつかればおそらく、ここに住まう全員が無事ではいられない。時が来れば、私たちはソウヤを犠牲にする選択をせざるを得ないでしょう。しかし、そうならない選択肢がまだ残っています。シーナさん、貴方がもとの世界で暮らすことで、安定が保たれるのです。今はこうしてご理解いただくことしか」


 その瞬間、闇に包まれた空に、光の明滅が表れた。星に見えるそれは規則的に並び、場所によってついたり消えたりしている。それは、まるで……

「マンション?」

 思わずそうつぶやいた椎名に、周囲がざわめく気配がする。

「あれは、幻界げんかいの建物か?」

「なぜ、今のタイミングで」

「こうしている間にも、幻界はこちらに近づいているということだろう」

 椎名から見えない位置から聞こえた人の声にそう答え、アツマは椎名を見つめた。椎名は彼を睨み返す。視線が交錯する間にも、背後の夜空に映るマンション群ははっきりと輪郭を形作ってきていた。


「やっぱり、あなたを信じることはできない」

 短くない沈黙のあと、椎名はそう言って身を起こす。ヒウチ仕込みのクロス盾で切り裂かれた拘束具が、力なく布団の上に落ちる。

「でも、わたしはあなたたちと違って、失いたくない」

 身体を包んでいた霧が晴れ、周りの景色が見えるようになった。木々に囲まれた先に、小ぶりな湖が佇んでいる。湖の脇に白布の人影があるのを見て、椎名はここがどこなのか確信した。湖に向かって真っすぐ歩きながら、椎名は言葉をつづける。

現界げんかいがこっちに近づいているのは、本当のことだってわかった。だったら、私のせいでソウヤが命を失うかもしれない。それは、絶対に駄目」

 湖の縁まで着いた椎名は、拘束されていた場所を振り返る。身体を動かせないアツマと周囲にいた三~四つの黒い影を視界に収めてから、椎名は小さく笑った。


「別の世界に住んでいても、生きていると思えた方がいい」


 湖……鏡張みばりのみずうみに向き合った椎名は、ためらうことなく水の中に飛び込んだ。



    ○ ● ○



「シウラにも、俺にも知らせず、勝手にシーナを帰したというのですか!」


 淡々と顛末てんまつを告げたアツマに、ヒウチは掴みかからんばかりの勢いで近寄った。

「北府の鏡張りの湖には、シーナさんのご自宅の近くに飛べるように座標を設定しています。戻るのに不自由はありません」

「そういうことを言っているのではありません!なぜ、誰にも知らせずそんなことを」

「それだけことは深刻なのです。守護府しゅごふの会議にかける手順を待っているわけにはいきませんでした。それに、幻界から来た方の処遇を決める方法は、守護府で定められていないでしょう」

「だからといって……」

 なおも言いつのろうとしたヒウチは、強い風が起きるのを感じてアツマを突き飛ばしながら身を引いた。間髪を入れずに、ヒウチとアツマがいたところに大きな穴が開く。


「ふざけんなよ!」


 風と共に飛び込んできたソウヤは、突き飛ばされてバランスを崩したアツマを睨みつける。

「お前が幻界に行けば、すべてが水の泡だ」

 無言でアツマに向かって突進するソウヤに、王が鋭い声をかける。

「その話をしてるんじゃない!」

 ソウヤが蹴りと共に、金色の鎖を繰り出す。それらはアツマに絡みつこうと伸び出すが、黒い蛇のような鎖に食べられて消えた。ソウヤは顔を上げないアツマをもう一度睨んでから、父王に向き直る。


「やり方がおかしいって言ってるんだ! 力を使って一方的にサラを、人間を捕まえて送るなんて、僕たちは何のために人間の姿になってるんだよ!」

「その点については同意する。実力行使をする前に、私たちも交えて対話することもできただろう。同じとして」

 ヒウチはそう言ってソウヤの方を見るが、ソウヤの視界にはヒウチが入っていないようだった。ただ真っ直ぐに王だけを見据え、再び金の鎖を繰り出す。王の手元からは黒い鎖が生み出される。しかし今度は金の鎖があっさり食べられることは無く、噛みつき、噛みつかれを繰り返す。その合間にソウヤは王に肉薄する。金の粒をまとったソウヤの拳を、黒い盾が受け止める。


 ――動きも、技も、私とはレベルが違いすぎる――


 場合によってはソウヤの助太刀をする気でいたヒウチだが、あまりにも高速で繰り広げられる親子喧嘩に割り込む力は無いと悟り、せめてソウヤの邪魔をせぬよう壁際まで下がった。

「鏡界を揺るがす人の過ちを、我々の力で止める。それが鏡界に人を招き入れた我々の努めだ」

「サラは、わざとやったんじゃない!」

「意図したか否かは問題にならない。それを気にするのは人間の役目だ。我々はただ、鏡界の崩壊を防ぐために在る」

「そんなの、一方的すぎるよ!」

 金の鎖が太さを増す。黒の鎖がやや圧された瞬間、ソウヤはふたたび王に迫った。


「お前には、確かに先祖返りの呼び名に恥じない力がある」

 何度も繰り出される拳を黒い盾で受け止めながら、王は淡々と言葉を紡ぐ。

「しかし、それゆえに常に力でねじ伏せる戦い方しかお前は知らない」

 王の右手に再び黒い影が集まる。周囲に漂う黒い鎖の動きが早くなる。さきほどまで何度も噛みついていた金の鎖は対象を捉えられず、慌てて追いすがる。

「使い方がまだまだ甘い」

 黒い鎖の動きがさらに早くなる。と同時に、王からソウヤに向けて、太い鎖が飛んでいく。無数に浮かぶ細い鎖の対応に追われていたソウヤは、真正面から来た鎖をかわしきれずに足を捉えられる。瞬間、彼の身体からがっくりと力が抜けた。地面に落下していく身体を、いつの間にか現れた黒いハンモックのようなものが受け止める。

「アツマ」

「はい」

 未だ少しふらついているアツマは、それでもしっかり立ち上がり王の方を向いた。

「ソウヤを地下牢に連れていけ。二界衝突にかいしょうとつの危機が去るまで、外に出してはならない」

「承知しました」

 アツマが何か手元を動かすと、天幕の下の地面が開いた。降りていくアツマの後ろから、ソウヤを乗せた黒いハンモックがついていく。


「ヒウチ」

 圧倒的な力のぶつかり合いを呆然と眺めていたヒウチは、王の呼びかけに身を固くした。

「自らの守護府に戻り、賢者けんじゃに確認を取るのだ。湖の境目が、薄れてはいないのかと」

「な、ぜですか」

「ソウヤの乱入で話が途切れたが、北府の湖を見たアツマから報告があった。湖への侵入から幻界到達までの時間が短くなっている。現行の賢者の配置では間に合わない可能性がある」

 先ほどの戦いに向けられていた意識が、その言葉で現実に戻される。


 ――そうか。幻界と此方こちらの世界が近づくということは、その門である湖がもっとも影響を受ける。そして、そこを守っている皆が――


 そこまで考えて、ヒウチは王を見上げる。

「北府から浮盾うきたての術者を派遣させる。守護者ほどの力は無いが、陸路を行くよりは早く帰れるだろう。シウラには、こちらでやってもらわなければならないことがある」

 ヒウチの心を見透かしたかのようにそういうと、王は今までまとっていた圧を弱めた。その時初めて、王がソウヤと対峙している間を放っていたことに気付いた。

「ことは急を要する。鏡界きょうかいの守護を頼む」

「はい」


 強いむちからの弛緩しかん。そして守護者として当然の任務の命令。心にわだかまりを抱えつつも、ヒウチは従わないわけにはいかなかった。戻る段取りと戻った後の賢者のケアを考えながら、ヒウチは急いでその場を辞した。

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