四章 ヤタカガミ

三十話  宵闇の鏡1

 ヒウチは、ドアをノックする音で目を覚ました。


 元々眠りは浅い方だが、今日は考えることが多くてなかなか床に就くことができなかった。それが幸いして、真夜中であるにもかかわらずしゃんとした足取りで、ほぼ間を置かずに扉を開けることができた。


 扉の先には、予想外の人物が立っていた。


「アツマ王子? 夜分遅くに、どういったご用件でいらっしゃいますか」

 思い切り首をかしげて尋ねる。アツマは、ソウヤと違って自由に動き回るタイプではない。そもそも、こんな夜遅くに一人で出歩くには身分が高すぎる。

「父上、王がヒウチさんをお呼びせよ、と申しております。一緒に参りましょう」

「王さまが? 夜行性なのか? ……いやすみません、先ほどお昼に会ったばかりなのに」

 失言めいた独り言が出ていたことに気づき、ヒウチは慌てて謝る。アツマはにこやかな表情でそれを受けた。

「いいえ。普段は父上もこの時間はお休みになります。ヒウチさんだけに、内密でお話がしたいとのことでしたので」

「……わかりました。すぐ支度をするので、お待ちいただけますか」


 昼間の話の続きは、シーナとシウラには聞かせられないことなのか。なぜ、わざわざ深夜なのか。疑問は尽きないが、今は早く話を聞いてみるしかない。


 アツマに連れられて、ヒウチは天幕をくぐった。

「夜遅くに済まない」

「いえ。ちょうど私も昼間の件が気になり、目が冴えておりました」

「それはちょうどよかった」


 天幕で対峙する王は、全く眠そうでも疲れた様子でもなく真っ直ぐに立つ。ここは謁見場で、王がおわすのは玉座なのだから椅子があってもおかしくないのだが、ここには下座も含めて腰かける場所は無い。広々とした空間がひろがっているだけだ。


 ――八咫烏やたがらすに変化しても、その場にとどまることができるように、か。人の姿でも座っている姿をめったに見ないのは、烏としての習性かもな――


「ヒウチ、何か気になることがあるか」

 王の声で注意が別の方に向いていたことに気づき、直ぐに姿勢を正す。今は王の習性を観察している場合ではない。

「失礼しました。……呼ばれたのは、私一人でしょうか」

 しかし王はそこの言葉で、ヒウチの視線は同席者を探すものだったと得心とくしんしたようだ。


「ああ。北府とは日が昇ったら早急に対策を練らなければならない。シウラにはその陣頭指揮を執ってもらう。そうなれば、我々と北府は研究をしている場合ではなくなる。

 おそらく中央府もそれに加わることになるだろうが、先ずそなたには拠点に戻る時間がある。その間にこの件について考察を深めてもらいたい」

「つまり、シウラとは別口で情報を伝えることで、先入観にとらわれず事態を把握してほしい、ということですか」

「そうだ」

「では、シーナは」


 もうひとりいた同行者の名を告げた途端、その場に鋭い緊張感が走った。まったく表情を変えない王は、ヒウチに口をはさむすきを与えずに言葉を紡ぐ。


「あの者は、危険すぎる。それを伝えるために、今ここにそなたを呼んだ」


 ヒウチを一瞥すると、王は話を続けた。

「あの者……椎名がスナと共通する部分が多いことは、部分的にしか『スナの手記しゅき』の内容を聞いていないそなたも気づいているだろう」

 強いのため口を開けないヒウチは、黙って頷き肯定を示した。


「椎名とスナの共通点は主に三つ。一つ目は幻界げんかい生まれでありながら、八咫烏の導きで鏡界に行きついたこと。二つ目は八咫烏と懇意こんいになり、カガミの発動場面をその目で見たこと。三つ目は、その過程でヤタカガミを扱えるようになったことだ」


 ヒウチは目を見開く。前二つは知っていたが、三つ目についての記述を見た記憶は無い。


「中央府にある手記には、スナがヤタカガミを扱う描写は無いだろう。だが人間がヤタカガミを扱うことは不可能ではない。八咫烏と心を通わせることができればな。

 実際のところ、ヤタカガミの発動原理はよくわかっていない。しかし、我々が把握する限り、人間でヤタカガミを発動させたのはスナと椎名だけだ。二人の共通点は、八咫烏と懇意になったことぐらいしかない。加えて、は他者の心を自分に映すことで発動する。ゆえにカガミと呼ぶわけだが。八咫烏の心のありようを間近でみていたから、発動ができたのかもしれない。そのあたりも検証が必要だが、今はそこは重要ではない。

 重要なのは、現界から鏡界に来た椎名が、二つの世界のバランスを崩しているということだ」


 王の右手横に黒い粒が集まる。粒は線となり、二つの細長い楕円形が宙に浮かんだ。

「椎名がソウヤに連れられてきたことで、幻界で存在を確立していた椎名が、鏡界に留まることとなった」

 上の楕円から矢印が伸びて、下の楕円を突き抜ける。

「椎名の身体は自己が確立された幻界に戻ろうとする。他方で、幻界もまた椎名の身体をそのうちに戻そうとする力がはたらく」

 突き抜けた矢印がUターンして下の円盤の入り口を突く。と同時に上の円盤が下の円盤に近づいてくる。

「二つの世界を行き来することで、その力は強まる。ちょうど、糸で縫い合わされた布のようにな。そうすると、二つの世界はますます近づき、最後には衝突する」

 ジグザグと、二つの円盤を往復していた矢印が円盤を引っ張る。互いに引き寄せられた円盤がぶつかり、砕け、黒い粒に戻った。

「これが異界渡りのリスクだ。現状を放置すれば、二つの世界はそのうち滅びる」


 ヒウチは、シウラが「空の上に影が見える」と言っていたのを思い出した。彼が見たという影は、椎名がいる世界の人々だということか。

「これらの理屈は、われらが保管している『スナの手記』および現状から考えられることだ。

『スナの手記』それ自体には詳しい事情は書かれていない。しかし、スナが生きていた時代にも、今と同じような状況に陥ったらしい。少なくとも、スナが鏡界に来てから、日増しに“別の世界”が近づいてくる描写がある。

 二つの世界がぶつかり、滅びることを防ぐ。そのために、我らの先祖は命を捧げた」

 ヒウチは目を見開いた。


「『スナの手記』にはこうある。

 〜〜〜

 思慕しぼしてやまないスナと生まれ育った鏡界を守る。神術を使えばそれを為せる。それを為せるのは自分しかいない。覚悟を決めたアバは、スナを腕に抱えて天高く飛び立った。最早もはや人の姿であっても、八咫烏の姿の時と何ら違い無しに力を使うことができた。これならば、スナの前に立つことができる。

 アバは、スナをまっすぐ見つめて言った。

『私の力は、貴方とその子孫をお守りするためだけにあります。貴方を忌んだあちらの世界をはねのけ、永久に安住の地を捧げます」

 スナは、不安だった。毎日空を見上げると、この世ではない世界が透けて見える。それを、アバは遠ざけてくれるという。しかし今のアバの心は、深い悲しみに包まれていた。

『あなたの盾を教わる日々は、あなたの心を教わる日々だった。なぜ、あなたはそんなにも悲しんでいるの』

 アバは小さく微笑んだ。

『今の言葉を聞いて安心しました。私の姿が無くなっても、貴方の心と私の心は繋がっている。ずっと、おそばでお守りします』

『アバ?』

 アバの言葉の意味を問おうとした瞬間、彼の身体から強烈な力が放たれた。

 あらゆる力が失われたあと、スナは巨大な湖のほとりに一人で立っていた。水面に映る景色が視界にとまり、空を見上げる。空の中には、先ほどまで鮮明に見えていた世界の影が無くなっていた。

『貴方は、どこに行ったの!』

 アバを呼ぶスナの声に、答えるものはいなかった。

 〜〜〜

 一部省略したが、概ねこうした記述がある。

 説明するまでもないだろうが、アバは、スナに助けられ鏡界をおこした、我らの先祖の名だ」

 王はそう付け加える。


「中央府が保管している『スナの手記』には、アバの目線が含まれる文章が抜けている。そもそも、アバの名前も記載が無い。この意味については、ヒウチに考えてもらいたい。

 ともかく、さきほどの記述からは、神術……我々のみが扱う術によって二つの世界を離すことはできるとわかる。その代償に、術者は命を失うということもな。

 恐らく今、我々の中でアバが使った神術を扱えるのは、ソウヤだけだ。しかし、我々はその力故に、ソウヤを失うわけにはいかない」

 王の視線が鋭くなる、それに反比例するかのように、ヒウチにかけられる圧が弱まった。


「最悪の事態が起きる前に、椎名には幻界へ帰ってもらった」

「帰ってもらった、ですか?まさか」

 ようやく口を開くことができたヒウチのすぐ横に、いつの間にか天幕の中に入ってきていたアツマが並ぶ。


「シーナさんには、さきほど幻界にお帰り頂きました」

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