三十四話 ふたりの世界1

 椎名の目の前で、水たまりが大きく沈んだ。


 黄色の長靴を水たまりから引き抜いた男の子が、振り返る。

「どうしたの?」

「なんか、水に引っ張られたみたい。でもだいじょうぶ」

「そう?」


 母親とおぼしき女性についていく男の子を見送ってから、椎名は水たまりを覗き込む。

 男の子が踏み入れて作った水紋がおさまると、そこには深い森林が広がっていた。


 ——これは、鏡界きょうかいの——

 少なくとも、の風景とは明らかに違う景色だ。


 鏡界を離れる直前のように、現界げんかいでは空に別の世界の景色が映ることはなかった。代わりに、あらゆる水たまり—―雨上がりにできる小さなものから巨大な湖まで―—では、水面が凪いだ瞬間、ふっと鏡界と思しき景色が見えることがあった。それに気づいている人は、いるのかどうか。

 時折、先ほどの少年のように、水たまりに深く沈み込む人を見かける。しかし彼らはちょっと振り返ることはあれど、まさか「異世界に引っ張り込まれそうになっている」とは思わない。「水たまりの中の泥に足を取られている」と考えるくらいがせいぜいだ。だから椎名の知る限り、このことは話題にも上っていないし、気にも留められていない。

 しかし、あれだけ簡単に鏡界の水に入り込めてしまうのであれば、鏡張りの湖を護る守護者たちの負担は大変なことになっているだろう。何せ、ひと一人を帰すだけで疲労困憊ひろうこんぱいになっていたのだから。


 ——わたしにも、何かできることは無いのかな——


 水たまりを干上がらせる?いや、きりがない。ヤタカガミを使う?いや、そもそも現界でヤタカガミは使えない。そんな自問自答を繰り返し、結局何もできないという結論に至る。それでも、水たまりを見つけるたびに思考を巡らさずにはいられなかった。

 今もまた、水たまりへの対処を諦めて塾へ向かおうとした。その瞬間、

 現界にいるはずの無い、いや者が椎名の目の前に現れた。


「なん、で」


 金髪青眼の派手な外見をした少年が、こちらに向かってくる。表情が無い彼を見た瞬間、椎名が抱いた感情は、怒りだった。

「ここに来たら、ダメなんじゃないの!」

「勝手にサラを帰そうとした父さまも兄さんもおかしいよ! でも、それで帰っちゃうサラもおかしい!」

「わたしは、ソウヤに、死んでほしくないから!」

 そういった瞬間に、ソウヤは怒鳴り返すのをやめて椎名の正面に立った。


「なんで? サラは、なんで僕に死んでほしくないの?」

「それ、は」

 椎名も反射的に怒鳴ろうとするのを抑えて、ソウヤとの出会いから今までを反芻はんすうする。歯を食いしばり、ソウヤの眼を見つめる。

「ソウヤは、しんどい日常から連れ出してくれた。日常から離れた世界があって、そこでは面白い日常があることを教えてくれた。……それに、そのおかげで、日常をうまくやり過ごす方法も、少しだけわかった気がする」

「日常をやり過ごす?」

「ヤタカガミを、心の中で作るの」

「ヤタカガミ、を?」

 小さく首を傾げるソウヤに、椎名は最近考えていたことを伝える。


「王さまは、盾とカガミは違う力だって言ってたよね。盾は他者を拒む力で、カガミは自分を他者から護る力だって。現界では盾もカガミも使えないけど、使うときのイメージは持てる。それがあれば、わたしはこころを護ることができる。前より……鏡界に行く前よりも、毎日が楽になったんだ。それで」

 椎名は息をついて、ソウヤの右手をそっと握った。

「ソウヤが別の世界にいて、カガミを自由に使って生きているんだって思えば、わたしもカガミを使って生きていこうと思えるんだ。でも、ソウヤが死んじゃったら、後悔する。わたしが鏡界に行ったせいで、こんなに世界が近づいているんだって。わたしが歪ませた世界を直すために、ソウヤに死んでほしくない」

 ソウヤは唇をかみ、下を向いた。


「でも……鏡界にいたら、僕に自由はない」

「正直にいうと、わたしは今我慢してる」

 早口で付け足した言葉に、ソウヤはすぐ顔を上げて椎名を見つめる。

「わたしが鏡界にいったのは、ソウヤに連れて行かれたから。でも、その後鏡界に残っていたのも、現界と行き来してたのもわたし自身の意思。今いる世界、現界げんかいの居心地が悪くて、別の世界に逃げてたんだ。

 戻ってきて、カガミを想像して、楽になったのは本当。でも、わたしにとっては鏡界のほうがずっと楽しかった。できるなら……鏡界でずっと生活してみたい」

「僕は……僕は、幻界げんかいでずっと生活してみたい」

 ソウヤの目が、きらきらと輝く。

「このまま椎名が鏡界に行けなくなっても、僕が幻界で生活を続けて、一緒に暮らしたらいいんじゃない? そうしたら、僕は幻界で生活できるし、椎名は鏡界を感じながら生活できる。僕はこちらの世界でも、カガミを出すことができるから」


「それ、は」


 鏡界の王族であるソウヤが、現界で過ごし続けることなどできない。それはわかっていても、椎名は言い返すことができなかった。いつの間にか握りしめられていた右手と、久しぶりに見た明るい表情が、椎名の口をつぐませた。だから。


「ソウヤ、鏡界に帰ろう」


 ソウヤに帰還を促した声の主は、ソウヤ以上にここ現界にいるはずの無い者だった。

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