十五話 ヤタノカミ1

「シーナ?」


 顔を覗き込まれて、とっさに目を逸らす。

 椎名の横から顔を出していたソウヤはわずかに首をかしげてから、手を差し出した。


「今日は、少し歩こう。幻界げんかいの景色がきれいなところ、行ってみたい」

 そういわれて、椎名は必死に思考を今に戻そうと試みる。

「いま、景色がきれいなところ……夏だし、山合いの場所がいいのかな」

 観光も景色も有名な地名をいくつか挙げると、ソウヤは頷いた。

「うん。じゃあそこ行ってみようか」

 いつものようにつないだ手を引っ張り、空へと飛び出す。椎名はぐるぐるとした頭のまま引きずられていった。


 —なんでよりによって、今日来たんだろう—


 ここ最近は、『スナの手記しゅき』を読んで寝不足だ。序盤じょばんから変わらず手記というよりは易しい神話のようで、読み進めるのは簡単だった。しかし、その内容が、椎名を混乱させていた。

 スナと八咫烏やたがらすの姿が、今の椎名とソウヤの姿にダブって見えるのだ。思わぬ形で現界げんかいから鏡界きょうかいに連れてこられ、八咫烏のもとで盾を学ぶスナ。彼女を振り回しながらもきちんと必要な技術と知識を与えてくれる八咫烏。

『スナの手記』に出てくる八咫烏の一挙一動をソウヤに置き換えて読んでいたので、いざ本人を目の前にすると手記の話がいちいち頭の中をよぎってしまう。


「シーナ、疲れてる?」

 はっとして顔をあげると、顔がくっつくくらい近くにソウヤの顔があった。いつの間にか椎名おすすめの山間部に到着していたらしい。足元には現界に来た際におなじみの金色の盾が張られ、椎名とソウヤは空に足をつけて立っている。

「んー、疲れては、いないけど。寝不足で少しぼーっとしてる」

「寝不足?忙しいの?」

「いや、考え事してて」

 そこまで反射的に口にしてから、椎名は思い切って、気になっていたことを問うことにした。

「ソウヤは、なんでわたしを鏡界に連れてこようと思ったの。あのときわたしは、ソウヤが車に引かれそうだったから飛び込んだけど。わざわざ鏡界に飛ばなくても、あなたの力があれば逃れることはできたよね」

 そう言って、繋いでいたソウヤの手をきゅっと握る。この問いは、はぐらかさずに答えてほしい。ソウヤはびくっと肩を跳ねさせ、目線をそらす。握った手を少し引っ張ると、ソウヤは観念したように口を開いた。


「シーナが、居心地が悪そうにしていたから」


 椎名はどきっとしてソウヤを見上げる。

「幻界で生活しているときのシーナは、いつも窮屈きゅうくつそうだった。言いたいことを言えなくて、周りの人には自分のことが正しく伝わらなくて。シーナだったら、僕のことを分かってくれるんじゃないかと思った。だから、シーナを選んだ」

「じゃあ、わたしのこと、前から知ってたんだね」

「うん」

『スナは、私を助けてくれました。私が貴方にお返しできるのは、誰からも傷つけられない安住の地と盾の技術だけです。それらを全て差し上げます』

 椎名の脳裏のうりに、『スナの手記』で読んだ八咫烏の言葉がよぎった。

「わたしはソウヤのこと、助けられてるのかな」

「うん」

 ソウヤは小さく答えて、椎名の手を握り返した。

「幻界は、広くて何でもできる。個にとけこんで生きられる。シーナがそれを教えてくれた」


    ○ ● ○


 椎名は中央府へ向かう道を歩きながらぼんやりと、ソウヤの言葉を思い返していた。


 —やっぱりソウヤも、八咫烏に変身できたりするのかな—


 烏になったソウヤを想像してみようとするが、どうもしっくりこない。そもそも八咫烏が、単に烏を巨大化した姿であるのかわからない。本物を見たことがないので、どうしてもゾウくらいの大きさのハシブトガラスを想像してしまう。


 考え事をしながら歩いていたため、右脇から飛んできた物体をよけたのはほぼ無意識下の反射行動だった。

「外したか」

 その声にとっさに振り返る。垣根の間から、黒い影が見え隠れしている。


「…っ、オーバル!」


 垣根から何かが飛び出した瞬間、椎名は声をあげて手を前に突き出した。

 橙色の盾にカツン、と細いものがぶつかり、地面に落ちる。

「矢が跳ね返らずに真下に落ちるとは。なかなか強い盾をお持ちのようだな」

 黒い影が椎名に近づき、細い棒を拾い上げた。椎名が盾を出したまま黒い影を睨みつけていると、影は体を起こしてこちらを向いた。

 黒い影は、目を除いて黒い布で覆われた人間だった。暗い緑色の瞳が、椎名をじっと見据える。

「なん、ですか」

 沈黙に耐え切れず椎名が口を開くと、ややあって黒布の人間が言葉を返す。


「幻界に、お帰りいただきたい」


「え?」

「生まれた世界で生活するのが世のことわり。貴方もまた然りです」

 もっともらしい、それでいてはぐらかされたような物言いに、椎名は一瞬言葉を失った。『スナの手記』を読むという仕事を貰い、盾の訓練を積み、充実している今の暮らしをそんな理由で捨てる気にはなれない。

「わたしは、やることがあってこちらの世界に来ています。初対面の方にいきなり帰れと言われても、帰りません」

「そうですか」

 椎名の言葉を聞くなり、黒布の人間はやや腰を落とした。

「では言い方を変えましょう。……幻界に、お帰りいただきます」


「オーバル!」


 黒布の人間が駆け出すのと、椎名が盾を出したのはほぼ同時だった。黒い影となった人間は盾に手を当てると身をひるがえし、椎名に向かって迫る。

 ―オーバル、オーバル、オーバル…―

 黒い影の行く手に何枚も楕円の盾を向けるが、そのたびに身をひるがえしてかわされる。影と椎名の距離は次第に近づいていた。


 ―盾で対象を弾くのは学んだけど。かわされた場合、どうすればいいの。ヒウチさんみたいにクロスは未だうまく使えないし。失敗したら、一気に距離を詰められる―


 もう一歩手を伸ばせば届くところまで、黒い影が近づいた。

「オーバルっ!」

 盾の縁に手をかけた黒布の人間は、逆の手に細い棒を握っていた。先端が光るのが見える。

「クロス!」

 意を決し、棒に向かって唱えるもやすやすとかわされる。尖った先端が、こちらに向いた。


「そこまでだよ」


 突然耳に飛び込んできた聞きなれた声に、椎名はどきっとして辺りを見渡す。

「シーナは目の前のに集中してて」

 そう言われて視線を正面に戻し、目を見張った。


 ゆがみが無い美しい正円。複雑な彩りの縁取り。全体が黄金色に輝く。鏡張りの湖で見た……いやそれよりももっと巨大で、美しい盾がそこにあった。


八咫鏡ヤタカガミ


 椎名が無意識につぶやくと、巨大な盾の縁が淡く光る。盾に施された縁一本一本が、陽の光を受けた水面のように揺らぎ、きらめく。

 椎名が見つめている間にも、盾の向こうにいた黒布の人間はどんどん離されていく。

 肉眼では見えないくらいに離れたとき、椎名は右手を掴まれた。

「行こう、シーナ。ここにいたらまたあいつが戻ってくる」

「うん」

 そういうや否や、身体がふわりと宙に浮く。

「ソウヤ。ありがとう」

「すごいね、シーナ」

「え?」

 聞き返すと、ソウヤは笑った。

「シーナが盾を知ってから、まだちょっとしか時間たってないのに。オーバルだけで、あれだけの時間持ちこたえられたんだから」

「でも、ソウヤが来なかったら、たぶん捕まって、現界に返されてた」

 言ってから、椎名は首をかしげた。

「どうやって、返すつもりだったんだろう」


 ヒウチの話を聞く限り、幻界(椎名にとっては現界)と鏡界の間を行き来する方法は2つしかない。鏡張みばりのみずうみを通るか、ソウヤに連れ出されるか。しかし、前者は監視者がいるから勝手にはできないだろうし、後者はソウヤが乗らないはずだ。現に、ソウヤは黒布の人間からシーナを助けてくれた。

「あとでヒウチに訊こう。シーナは、今日は中央府の中にいたほうがいいんじゃないかな。そこまで送るよ」

 ソウヤにしてはまともなことを言って、彼は空を蹴った。相変わらず足場は何もないはずなのに、彼が蹴るとぐーんと前進する。あるはずの空気の圧は、ほとんど感じない。それでも、椎名には何度目かわからぬ空中散歩を楽しむ余裕はなかった。


 ―人が来て、追い詰められて、ギリギリのところでヤタカガミを使って助けてもらった。これは、『スナの手記』のスナと、同じ―


 ソウヤと過ごせば過ごすほど、物語の中のスナと椎名が、ソウヤと八咫烏がダブって見える。


 ―やっぱり、ソウヤは八咫烏なの?何で、わたしを助けたの?―

 その問いかけを口に出すことはできず、ただ黙ってソウヤを見上げていた。

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