五話 鏡張りの湖2
「ここが……」
背の高い竹垣をヒウチが開けると、突然視界が開けた。白い岩肌に囲まれた広大な空間。その中心に、文字通り鏡のようになめらかな水面が広がっていた。
「そう。これが、
水面付近の空気はわずかに霧をまとい、マーブル状に揺らいで見える。しかし、水自体はぴくりとも動く様子がない。
「今日は、誰も来ていないようだな」
ヒウチはそういうと、椎名を手招きする。ついていくと、彼は湖の外周沿いをゆっくりと歩き始めた。
「ここも私の
彼の目線の先に、全身を白い布で
「この場所を守護する任に就く賢者は、誰かと口をきいたり、一定時間以上水面から目を離してはいけない。数秒の差が他者との接触を生む」
「あの、ヒウチさんが守護者になってからこちらの世界に来た人がいない、というのは。もしかして、到達する前に返している、ということなんですか」
「そうだ」
ヒウチは椎名の問いにあっさり答えた。
「この湖には生き物が全く住んでいないし、風すらも避けて通る。それが何故かはわからないがね。だから、この湖から泡が出てきたり、波が立ったりしたらそれは“別世界から何者かがやってきた”証拠だ。その
そう言った瞬間、目の前の水面から小さな泡が立った。この湖には存在しないはずの、泡が。
「エナ!」
ヒウチが声をあげたのと、全身を白布で覆った人影が動くのは同時だった。
人影は手を前に突き出す。その手の先からは金色の光が漏れだしていく。金色の光は渦巻きながら水面に潜り、少しづつ形を固めていく。形づくられたモノは、まるで……
「銅鏡?」
色は違うけれど、円形で複雑な模様が刻まれたそれは、歴史の資料集で見た銅鏡にそっくりだった。むしろ、資料集に載っているのは
金色の銅鏡は水中でも光を失わず、模様をなぞるように輝きを放つ。刻一刻と色味を変え、まるでひとつの生き物のようだ。
色の変化に合わせるように、次第に光は弱まっていく。光が消えた瞬間、銅鏡は砕け散った。椎名が水面をよくよく覗き込んだ時、そこは水紋ひとつない平らな鏡、いや湖面が広がっているだけだった。たった今まで見ていた景色が、幻だったのではないかと疑いたくなるくらい、そこには何もない。
右肩を叩かれているのに気がつき、椎名ははっとした。
「シーナ、ここで待っていてくれるか」
肩に手を置いたヒウチは、椎名が頷くのを見届けると白布の人影のもとに駆け寄った。
「エナ、大丈夫か」
人影は頷いた、のと同時に
「すぐにアヅミを呼ぶ。それまで、ここを任せられるか」
ヒウチはそういうと、出口に向けて駆け出した。椎名はただ何もできず、その後ろ姿を見送った。
○ ● ○
アヅミという人は、すぐ近くに待機していたらしい。椎名が予想していたよりすぐ、ヒウチは白布を
「浅瀬に出たとはいえ、出力を上げすぎだ。エナ、ちゃんと休みなよ」
新たにやってきた白布の人……アヅミはそういうと、もとからいた白布の人……エナの肩をぽんと叩いた。エナは頷いた瞬間、その場に崩れ落ちる。ヒウチがすぐに駆け寄り、腕を回した。
「アヅミの言う通りだ。しかし、私がいたことで普段より
腕に掴まり立ち上がろうとしたエナを押しとどめ、彼女の膝の裏に手を回した。お姫様抱っこの格好でエナを担ぎ上げたヒウチは、再び元来た道を戻ってくる。
「ああ、すまない」
さすがに両手が
「突然すまない。この説明はあとでする。もう少し、待ってもらえるか」
「はい」
「ありがとう」
ヒウチはそのまま、竹垣の外に向かう。どうやら道の先に見える小屋に向かっているようだ。そこまでわかったところで、いったん竹垣の扉を閉めた。彼が行って帰ってくるまで見ていたいのは山々だったが、この場所が常に開かれているべきではないことは、先ほどの一連の出来事を見ていれば察せられた。代わりに後ろに向き直り、再び湖の水面を見つめた。
−水の中に、光があった−
椎名の脳裏には、先ほどの光景が焼き付いていた。ヒウチは「盾を使って返す」と言っていたから、先ほどの銅鏡のようなものも盾の一種なのだろう。しかし、あれは宿の中でヒウチが出した盾とは全く違う。光を
―守護者って、そういう意味なのかな―
ヒウチは、自分のことを守護者だといった。住民同士のトラブルを
—いや、違う—
椎名は小さくかぶりを振った。確かにあの盾は、生きているような動きを見せた。しかし、それを生み出し操っていたのは、この世界の人間だ。白布を被っていた、エナと呼ばれていた人がそれを為していた。かなり体力を消耗しているようだったが、それでも、人の力で産み出すことができるのだ。
「おい、大丈夫か」
急に背中を叩かれて、椎名はビクッと肩を跳ね上げた。勢い良く振り返ると、驚いた顔のヒウチと目が合った。
「声をかけても反応が無いから、湖に魅入られでもしたかと思ったが。大丈夫か」
もう一度かけられた確認の言葉に頷きながら、椎名は先ほどまで考えていた疑問をそのままぶつけた。
「あの、こちらの世界で使われている盾は、こちらの世界の人だから扱えるのですか。例えばわたしが、別の世界から来た人が扱うことは、できるのですか」
ヒウチは目を瞬かせた。
「シーナは、盾を使えるようになりたいのか」
「はい」
「そうだな……」
ヒウチは二、三刻
「盾は超能力ではなくて技術だから、私たちは
「本当ですか」
「やってみなければわからない、がな。しかし、守護者でなくとも、盾は自衛の手段としてここに住む人皆が扱っている。シーナもここで暮らすなら、使えるようになって損はないだろう」
ふと言葉を切ると、ヒウチはしゃがんで椎名と目線を合わせた。
「そう思う、ということは。鏡張りの湖を見ても、シーナの考えは変わらない、ということでいいか」
椎名はもう一度湖の水面を見た。先ほどの攻防が嘘のように、ぴくりとも動かない水面を。そこに自分が入る様子を想像しかけて、かぶりを振る。
「わたしは、この世界で盾を学んでみたいです。何も知らないまま元の世界に戻って、またこちらに来られるかわかりません。それに、先ほどの盾の力を見て、思いました。わたしがこの世界に来たのは、かなり珍しい偶然に過ぎないんだと。であれば、すぐに戻るのはもったいない気がします」
ああ、とヒウチは小さく唸った。
「色々あって忘れていたが。シーナがこちらに来た
独り言のようにそう
「シーナの考えはわかった。今日から、私のもとで君の身を預かろう。盾の手ほどきも私が行う。あまり身体が空かない日もあるが、その時は中央府の者にも手伝ってもらう。……いずれにせよ、この世界でシーナが不都合に感じない生活を約束する。それでいいか」
椎名は大きく頷く。
「はい。これから、よろしくお願いします」
「では戻ろうか。私の生活拠点であり、シーナの新しい住まいになる、中央府へ」
椎名はヒウチに手を引かれ、竹垣を抜ける。
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