四話  鏡張りの湖1

「わたしがいた世界と、こちらの世界は行き来できるんですか!」

 椎名は、おもわず大きな声を出してしまった。


 椎名とヒウチは、中央府の小部屋で向かい合い座っている。ヒウチが仕事をする執務室しつむしつのとなりにある、小さなテーブル一台と椅子が二脚置かれただけの質素しっそな部屋だ。薄いオレンジ色の壁紙をはじめ、全体的に暖かい色味で統一されているからか、窓はないものの何となく明るい。


 宿屋から出た椎名は、ヒウチの案内のもとすぐそばにあった中央府に向かい、この小部屋に通された。強いレモンの香りがするお茶を注ぎながら、ヒウチはこの部屋を使うのは久しぶりだ、と笑った。


「この部屋は、中央府の守護者しゅごしゃが個人的な客人と一対一で話をするための部屋なんだが、まあほとんど使うことは無い。他の地域の守護者と話す時は大抵たいてい相手が複数だし、部下と話す時は執務室だ。仕事とプライベートは分ける派なんでな。

 そんな中でこの部屋は、それこそプライベートとの境界が曖昧あいまいだ。歴代の守護者も、自分の研究を進めるために学者を呼んで話を聞いたり、今の私のようにあちらの世界から来た人を招いたりするのに使ってたらしい。

 私が守護者になってから、あちらの世界から人が来たのはシーナ、といったか……君がはじめてだからな。今後はあちらの世界の話を教えてもらったり、こちらの世界の話を伝えたりすることになるだろう。もちろん、シーナは向こうの生活もあるだろうから、そう頻繁ひんぱんにこちらに居るわけにもいかないだろうが」


 その言葉を聞いて、大声を上げてしまった次第しだいだ。


 そんなに便利に行き来ができるなら、今までも頻繁ひんぱんに「異世界人」はやって来ていたのではないか。しかし、椎名が暮らす世界でそんな話は聞いたことがない。


 こちらの世界に椎名を連れてきた少年……ソウヤとヒウチとの会話から、自分が元の世界に戻るのはソウヤ無しにはできないと思い込んでいた。目を見開く椎名に対し、ヒウチはこともなげに頷く。

の世界から人がやってくることは珍しいが、全く無いわけでもない。ただ、君のようにの世界の一族の手で直接連れてこられるパターンは初めて聞いた。大抵の場合、の世界の人は“みばりの湖”を見て、こちらの世界にやってくる」


「みばりのみずうみ、ですか?」

 字がイメージできずに聞き返した椎名に、ヒウチはそうだ、と頷く。


「水が張られた美しい池や湖は、風が吹かないと周りの景色をそのまま映し取る。だが、まれにあちらの世界とよく似た、こちらの世界の景色を写し出すことがある。そのタイミングで水面に触れると、こちらの世界に招かれる、と言われている。

 水面が無風状態むふうじょうたいになること自体が滅多めったにない。逆にいえば、こちらの世界をつなぐ湖は立地上りっちじょう限られている。だから、「こちらの世界とあちらの世界を繋ぐ湖」ことを、鏡張みばりのみずうみと呼んでいるんだ」

「……つまり、その鏡張りの湖を見つければ、元の世界と行き来ができるということですか」

「そういうことだ。そして、こちらの世界の湖の場所は何箇所なんかしょかわかっている。向こうの世界からやってきた君なら、戻ることができるはずだ。この近くにあるから、あとで案内しよう」

「はい、お願いします」


 椎名が頭を下げると、ヒウチは小さく頷いてカップを手に取った。


「こちら側にある鏡張りの湖は厳重げんじゅう監視かんしされているから、よっぽど要領ようりょうのいいやつ以外そうそう入り込むことはできない。あるとすればあちらの世界から、事故みたいな形できてしまうパターンだ。それも、こちら側の湖に出た時点で賢者けんじゃ……監視役が気付いて、大抵たいていの場合すぐに元の世界に戻っていく。

 賢者の判断で守護者の元へ招くことになった場合は、近くの守府しゅふに連れてこられるが中々あることじゃない。まあ、私が守護者になってから初というだけだから、今までも何人かがここまで来ていることは確かだな」


 あちらの世界からこちらの世界に来るのは、事故みたいな形。


 そのフレーズが、妙に引っかかった。

 ヒウチの言葉にならうなら、湖を伝ってこちらの世界に来る場合、水面に触れる必要がある。美しく完璧な像を発見するくらいに湖をじっと見つめていて、かつそれに触れる人。単に美しさに魅入られてそうする人もいるだろう。でももっと世俗的せぞくてきな、例えば生きることについて立ち止まって考えたくなったとき。水面をじっと見つめる時は、そんなときもあるのではないだろうか。そんな状態でこちらの世界にうっかり招かれてしまったら、それこそ事故のようなものだろう。そういう人は、確かにひっそりと帰されてしかるべきかもしれない。


 逆にいえば、「事故ではない形」でこちらの世界に来た人が、守護者といわれる人のところに招かれたのだろう。湖を介さずに(介したのかもしれないが、椎名はこちらの世界に来た時の記憶が無い。覚えているのはソウヤに手をつながれて光の中を進んでいたということだけだ)、気付いたら宿屋の部屋の中だった、というパターンの椎名がこちらに来たのは、事故なのか、そうではないのか。正直どちらでも構わなかった。椎名自身は、こちらの世界に来たことを嫌だと思ってないし、むしろあの居心地の悪い校外学習の道中から逃れられたことに対し安堵あんどすらしている。


「あの、わたしがもし今から帰ったら、こちらに来た時と同じ場所・同じ時間に帰されるんですか?」

 ふと思ったことをそのまま口にする。

「いや。こちらの時間の進み具合と、あちらの進み具合は同じらしい。ただ、丁度昼夜は逆転している。こちらが真っ昼間なら、向こうは真夜中だ。それに、鏡張りの湖の出口付近に出される。湖から自分が住む場所までは、自分の足で戻らないといけない」

「じゃあ、わたしがいないことは、向こうの世界には」

「無かったことにされる」

「え?」

「君がこちらに来ている間だけ、向こうの世界に居る人たちは君の存在を忘れる。そこに、君が存在していなかったかのように。だが君が戻った瞬間、元通り君はいたものとしてあつかわれる。そういった状況が生まれるらしい」


 それならば、帰るタイミングは慎重に選ばないといけない。加えて、こちらにいればいるだけ向こうの世界のことは気にしなくていいというのは魅力だ。そんなことを考えていると、ヒウチは自嘲じちょうするように言った。


「まあ、偉そうに色々言っているが、私自身は君がいた世界に行ったことは無いし、鏡張りの湖も使えない。だから、全部これまでの、この世界の歴史上起こったことから話していることだ。あとは、君自身が実際に経験して覚えるしかない」


「わたし自身が、経験して」


 その言葉を反芻はんすうすると、ぽんとひとりの世界へ背中を押されたような気分になった。他の人が踏み入れない、自分自身が身をもって体感することでしか、わからないこと。椎名がこれまで生きてきて、そんな経験をした記憶が無い。いや、体感でわかる、というたぐいのものはあるが、突き放されるように体感してこい、と言われたことは無かった。それは、決して嫌な感情ではなかった。

 とはいえ、


 ——「わからない」ということは、わたしが鏡張りの湖に身を落として、元の世界に無事帰れる保障は、ない——


 椎名は、小さく首を横に振った。

「怖いか?」

 そう聞いてくるヒウチに、はい、と小さく答える。

「ここの世界で、色々経験するのは怖くないです。でも、その鏡張りの湖を通って、元の世界に戻れるかどうか、戻れたとしてもこちらの世界にまた来られるのか。それがわからないのは、怖いです」

 ヒウチは頷いた。

「自分がいる世界を失うのは、自分の生活を失うことに繋がる……それは、わかる・わからないの次元の話ではないからな。私とて、やり方を知っていても湖に飛び込む勇気は湧かない。

 君がしばらくこちらの世界で生活すると決めるなら、無理に湖に飛び込むことは無い。だが、一応場所だけは教えておこう。どちらの判断をするにせよ、世界の出入り口を知っておいて損はないだろうからな」

 そういって、ヒウチはちらりと椎名のカップを見やった。


「来たばかりで疲れているだろうが、今から見に行くか? もう少しゆっくりしてからでも構わないが」

 無意識のうちにカップを握りしめていた椎名は、はっとして手をゆるめる。


「確かに、少し疲れています。でも、頭が疲れてるんだと思います。身体は元気なので、むしろ少し歩きたい、と思います。頭だけを使っていると、気分が落ち込んでしまいますし」

 たどたどしくそういうと、ヒウチは椎名の目をじっと見た。椎名の言葉の真意を探るように、じっと。数秒間、目を合わせてから静かに立ち上がる。


「確かにな。頭の使いすぎは身体に毒だ。少し歩くか。目に見えて気になることがあれば、都度つど聞いてもらえればいい」


 椎名はヒウチに続いて席を立ち、引き戸の向こうへと向かった。

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