終章

終  鏡の誓い

沙良さらちゃん、部活行ってくるね」

「うん、行ってらっしゃい。また明日」

 手を振るクラスメイトを見送ってから、椎名は校門に足を向けた。


 あの日ソウヤが使った神術の影響は、現界げんかいにも及んだ。水面が強く光った、大きな湖の周辺で揺れを観測したといった事象が発生し、テレビでは盛んに特番が組まれた。しかし、それによって崖が崩れたとか、木が倒れたとかの大規模な被害は起こらず、一ヶ月もすると報道は下火になり、人々の会話にのぼることもほとんどなくなった。


 水面が光る前に、周囲と違う景色を見たと主張する人もいた。しかし、水に映った異世界鏡界の像を覚えている人がいたとしても、もう一度見ることは叶わない。こちらから行くすべもない。大方おおかたは強い光にさらされたショックで、過去の自分の記憶がフラッシュバックしたのだろうとされていた。


 椎名は、鏡界きょうかいに言ったことを誰にもいわなかった。ただ、鏡界に行く前よりもいっそう勉強に打ち込むようになった。

 あちらの世界に行っている間、進めるべき勉強ができていなかったというのもある。しかしそれ以上に、居心地のよい環境を自分の力で見つけたいという思いの方が強かった。


 鏡界から一度戻ってきたとき、以前よりも穏やかな気持ちで生活できるようになった。しかし自分が住む環境自体は、簡単に変わらない。変わったのは椎名の心の持ちようだけだからだ。とはいえ、無理にその環境から離れることは難しい。鏡界と現界げんかいの衝突くらいの深刻な事態にはならずとも、周囲の人々に迷惑をかけたり、心配をかけたりすることになるだろう。直接いじめられているわけでも、家庭に大きな問題があるわけでもない椎名にとって、転校するという選択肢は頭になかった。


 逃げることなく、今の環境から離れる。そのためには、受験による進学をする。椎名はそう結論づけた。遅れを取り戻すのは容易なことではなかったが、「居心地のよい環境を見つける」という目的を見いだした椎名は、なによりも前向きに勉強に打ち込んだ。


 志望校から合格通知が来たときは、じわじわと喜びがこみ上げてきた。中学の同級生も何人か合格していたようだが、クラスが別だったり、元々接点が薄い人だったりしたのであまり気になることは無かった。

 自分に合いそうな学校を探した甲斐あって、高校は居心地がよかった。小さないさかいは時折起こるが、クラス全体を不快な空気が覆い続けることは無い。何より、さっぱりした気質の友人ができた。常に行動を共にするわけではないが、お互いを必要とするときに求める答えが返ってきて、心地よい関係だった。



 今の自分をつくるきっかけを考えたとき、いつも脳裏には最後のソウヤの姿が浮かぶ。ソウヤは鏡界に縛られる己を忌み嫌っていたが、最後は鏡界にとどまり、二つの世界を存続させることを選んだ。椎名もそれを望み、彼が神術を発動させる場に立ち、ヤタカガミを発動させた。


 もう二度と、鏡界に行くことはできないだろう。しかし、鏡界には椎名を信じて、励ましてくれる人たちが確かにいた。彼らから盾やカガミも学んだ。あの力を現界で使うことはできないが、自分を護る心のありようは見いだせた。


 道ばたに小さな水たまりを見つけるたびに、椎名は誓う。鏡界で得た力、教えてもらったこと。それらを全て、無駄にはしないと。


 校門脇にできた水たまりをしばらく眺めていた椎名は、きびすを返して歩き始める。



 軽い足取りで歩く椎名の後ろを、一羽の烏が飛び立った。



《完》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る