三十九話 ヤタカガミ2

 中央府に近づくにつれ、星のように輝く光が見えてきた。だんだんと強まる輝きに比例するように、ソウヤの胸は高鳴った。


 ——あの真ん中に、サラがいる——


 湖の縁に真っ直ぐに立つ椎名を見て、ビエイは気持ちを固めた。

「行って来い、ソウヤ」

「はい!」

 父王に答えたソウヤは、振り返ることなく湖に近づく。

 急降下しながら、身体が光に包まれる。八咫烏ヤタガラスの翼が消え、巨躯が細身になり、人の姿に変化する。翼で飛んでいた時と何ら変わりのない速さで降りながら、叫ぶ。

「サラ!」


    ○ ● ○


 光の中にいた椎名は、ソウヤの声に上を見上げた。頭を下にして降りてくる彼は、視線に気付くとスピードを緩め、すぐ近くまでやってくる。


「サラ、行こう。世界の衝突を、終わらせよう」


 差し出された手をとるのは、ためらわれた。

「神術を、つかうの……? ソウヤは、無事でいられるの?」

「僕も、サラも、無事で生き残る」

 断言するソウヤの表情に迷いはない。椎名はちらりと自分が出したヤタカガミを見た。彼がここに来たということは、カガミだけで世界を護ることはできないのだろう。

「ほら。僕たち二人でなら、きっと世界を護れる」

 心を読んだかのようにそういう彼に、椎名の心も固まった。

「わかった。ソウヤ、連れてって」

「うん」


 手をつないだ途端、身体がふわりと宙に浮いた。夜な夜な中央府の小部屋から連れ出され、空中散歩をしていた時と同じ感覚。しかしそれはすぐに終わり、ソウヤと椎名は向かい合う形で空中に立ち止った。足元に金色のじゅうたんは無い。四本の足裏を覆うように、金の粒が舞っていた。


 ソウヤは椎名の両手を取り、真っ直ぐに目を合わせる。

「サラ、よく聞いて。これから僕は、『スナの手記』に書いてあった術を使う。八咫烏の力がいるから、僕が考えている言葉がサラの頭に響くとおもうんだ。

 術の最後に、僕がサラに呼びかける。そのとき、サラは僕に向かってヤタカガミを使ってほしい」

「ヤタカガミを?」

『スナの手記』に、そんな記述はなかったはずだ。そう思い問いかけると、彼は大きく頷く。

「父さまが言ってた。術が完成するのと同時にサラがヤタカガミを使えば、サラは安全に幻界に戻れるって。たぶん、僕も無事でいられる」

「術を使っても、死なないってこと?」

「うん」

「っ、そうか!」


 タイミングよく割り込んできた声に、下を見る。ヤタカガミが切れたことで光が弱まった湖のほとりに、ヒウチと八咫烏の姿のままのビエイが立っていた。

「『スナの手記』で八咫烏の命が尽きたのは、世界を引き寄せ続けるスナを鏡界きょうかいに抱え込もうとしたから。……シーナが術発動のタイミングで現界に帰れれば、シーナもソウヤも無事でいられる。そういうことですか」

『そうだ。神術を使うと、鏡張みばりのみずうみに飛び込むだけでは通過できなくなる。しかしヤタカガミを使えば……あるいは戻れるやもしれぬ』


 声を張るヒウチと、脳内に響くビエイの言葉は椎名の場所からも聞こえた。

「つまり、わたしがヤタカガミをうまく使えるか否かで、わたしたちが無事に生き残れるかが決まるっていうこと?」

 責任重大であると言外に告げられ、緊張が高まる。見たことのない術を前にして、うまく発動することができるだろうか。それに、失敗したらソウヤも、椎名も死んでしまうかもしれない。

「大丈夫だよ」

 ソウヤは笑いかける。

「なんで……」

「サラは、盾……ううん、カガミの使い方をもうわかってる。ほら、もそうだよ?」

 ソウヤはトントン、と足元に舞う光の粒を叩いた。

「地面に落ちる力から、わたしとソウヤを護ってる……カガミは、自分を、他者から護る力」

「うん。今回使う、ヤタカガミは?」

「わたしとソウヤを、世界の衝突から護る力」

 その通り、というようにソウヤは笑顔で頷いた。

『ソウヤ、時間が無い』

 脳内に響くビエイの声に、わずかに顔をしかめる。しかし、時間が無いことは二人ともわかっていた。ここまで来たら、ソウヤを信じるしかない。


 椎名は手を強く握り返した。

「元気でいるって、約束して」

「世界が残っている限り、僕はそのどこかで生きている」

 最後にもう一度小さく笑ったソウヤは、すっと真剣な表情に変わった。手をつないだまま、スーッと深く息を吸う。



 変化は、突然だった。一瞬にして、足元の水面が銀色に変わる。水銀のような、重く不透明な液体。


『センソン、水面を支配する』


 重々しい声が椎名の脳内に響く。状況からしてソウヤの声なのだろうが、その声質から、到底同じ人とは思えない。彼は目を閉じ、僅かに光を放っている。握りしめている手の力強さは感じるが、人の手とは違う、軽い感触になっていた。力を入れると壊れてしまいそうで、椎名は一ミリたりとも手を動かせずにいた。

 銀色の水面はわずかにさざ波を立て、揺らぐ。しかし見た目だけでなく、材質も変わっているのか波は水のようには広がらず、すぐさま収まる。各地に生じていた泡と波は少しずつおさまり、ほどなくして、文字通り完璧なが現れた。


『ゲツメイ、空を覆う』


 現界げんかいが映る空に陰が差す。建物が見える場所も見えない場所も等しく塗りつぶし、次第に周囲は暗くなる。暗くなればなるほど、ソウヤの姿が輝きを強める。陰は熱をも奪うのか、どんどん気温が下がっていく。椎名は思わずぶるっと震えた。


『テンショウ、全てを在るべき姿へ』


 ソウヤと椎名にまとわりつくように、光の粒が生じる。それらは次第に範囲を広げ、目に見える範囲すべてが光に包まれる。さきほど椎名がヤタカガミを発動していた時は眩しすぎて見えなかったが、今は薄い光の膜が広がっているのが見て取れた。水辺に立つヒウチとビエイ、賢者、候補生たちの姿も小さく視認できる。


『っ、くっ』


 小さなうめき声が聞こえ、椎名は目線を目の前に戻した。びっしりと汗をかいたソウヤが、僅かに身体を震わせながらも、真っ直ぐ立っている。つないでいる手はますます軽くなり、見た目は人の手なのに、本当に鳥の羽を掴んでいるかのような感覚にとらわれた。声をかけたかったが、先ほどソウヤに指示されたこと以外の動きをするのは怖い。だから口は動かさず、ソウヤの手を指でなぞった。大丈夫だという思いを込めて。


 震えながらも顔を上げたソウヤは、僅かに微笑んだ。


 とたんに、周囲を覆う光が強くなる。まぶしくて目を空けているのが難しいくらいだが、湖の周りにいる人々の姿は相変わらずはっきりと見て取れる。

 光は水銀色の湖にも干渉を始めていた。不透明な層がどんどん下がり、湖の場所だけが陥没しているようだ。しかし、目を凝らせば水銀色の層の上に透明な水が見える。湖の水をすように、ゆっくりと層がおりていく。


 水辺に立つヒウチには、その変化がよりはっきりと見て取れた。彼は神術の効能をよく知らない。しかし、眼の前で繰り広げられる光の降下は、鏡界から幻界の影を払う行為に違いなかった。

 闇に潰された空と、銀に覆われた湖からは、幻界の様子を見てとることができない。それでも、先ほどまで賢者たちを苦しめていた影は遠ざかっている確信はあった。一方で幻界の後退は、幻界育ちの少女の帰路が遠ざかることをも意味する。


「シーナ!」


 ヒウチは思わず叫ぶ。盾を身に着け、盾者としての生活にもなじんだ彼女だが、ビエイがカガミと呼ぶ上位の盾まで会得してしまった。まだ、いろいろと話をしてみたかった。ただ今は、無事に帰ってほしい。

 ヒウチの声が届いたのだろうか。上空にいる椎名が顔を向ける。目が合い……頷いたように見えた。


『サラ! ヤタカガミを出して』


 その瞬間、ソウヤの声が頭に響く。ヒウチの方に気を取られていた椎名は、目の前にいるソウヤに向けてどうカガミを出すのか、一瞬考えあぐねた。


『手を離せ! ソウヤ! 落下しながらヤタカガミを発動だ』

「シーナ、手を放すんだ」


 ビエイと、ヒウチの声が重なって聞こえる。椎名は三度、ソウヤと視線を合わせる。青い瞳は揺らいでいたが、二人の指示が正しいと伝えているように見えた。


『ソウヤ!』

「シーナ!」

「『手を離せ!』」


 二人が手を放したのは、ほぼ同時だった。足元を支える盾の効能も切れたのか、椎名は背中から湖に向けて落ちていく。


 ——カガミは、わたしとソウヤを、世界の衝突から護る力——


 さきほど自分が言った言葉を頭の中で復唱する。そして、どんどん小さくなるソウヤに視線を合わせた。


 —―ヤタカガミ―—


 強力な光の粒が乱舞する。湖を覆うほどのカガミは複雑な金の模様を描きながら、椎名と共に落ちていく。主から決して離れまいとするように。

 椎名は背中から落ちる恐怖をこらえながらも、ヤタカガミから目を離さなかった。

 水に入った感触があった。服の重みが身体にかかる。神術の力か、ヤタカガミのおかげか、呼吸はできる。なおも見上げる空の先に、一瞬、翼を広げる巨大な烏の姿が見えた。


 ―—さようなら、ソウヤ―—


 水の中へ深く、深く沈み込み……視界が暗転した。

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