七話 鏡界と幻界
彼の訪問は、いつも突然だ。
日課となった盾の練習を終え床に就こうとしたとき、彼は音も無く椎名の部屋に現れた。
「ソウヤ」
忘れていたわけではない。ただ、日々の生活の忙しさから意識にのぼらなかっただけだ。しかし、こうして薄暗い部屋の中で彼を見上げると、宿屋に彼がやってきた時のことを思い出さずにはいられなかった。
「あなた、夜行性なの?」
思ったことをそのまま口にすると、ソウヤはわずかに目を見開いた。ビー玉のように澄んだ青い瞳が揺れる。
「僕は、動きたい時に動くだけだよ」
彼はそれだけ言うと、椎名に手を差し出した。
「行こう。外に」
「今、動きたい時ということね」
「そういうこと」
椎名は迷ったが、ソウヤの手を取った。そもそも、こちらの世界に来たこと自体がソウヤの力によるものだ。ならば、彼の目的を知るためにも、彼と一緒に行動してみたほうがいい。そんな考えを知ってか知らずか、椎名の手を取るなりソウヤは窓から
「ちょっと!」
地面に落ちる、と思った瞬間ソウヤはもう一度跳ねた。まるで空中に足場があったかのように、ぽーんと勢い良く上空に飛び上がる。こんな力で引っ張られたら手が痛い、と思ったが覚悟したほどの
——なに、これ——
椎名の混乱を気にすることなく、ソウヤは暗い空を駆ける。そのうちに、周囲の風景が虹色に変わる。これは、椎名がこちらの世界に来たときと、同じ……
「気がついた?」
次に椎名が景色を見渡す前に、ソウヤの腕が腰に回されていることに気付いた。反射的に離れようとするも、強い力で押しとどめられる。
「ここ、空の上だから。あんまり動かないで。僕の手を離したらだめだよ。わかった?」
そういわれて周りを見渡すと、確かに地面が無い。いや、足元をよく見ると淡い金色の、薄い膜が張られている。その上に、ソウヤと椎名は立っていた。
「これも、盾の力?」
「もともと、
椎名が足元をつま先でつつきながら
「それより、今いる場所について知りたいんだ。あれは、シーナの学校?」
そういわれてソウヤが指差す先を見ると、立ち並ぶ白い柵がぼんやりと浮かんで見えた。もうすぐ夜明けなのだろう。東の空は朱色に輝いているが、椎名たちが立っている場所は未だ暗い。しかし地面に目を凝らしてみると、ぽつぽつと立つ街灯の位置や道並みには見覚えがある。
「ここって、わたしが住んでいた、」
「そう。シーナのいる世界。僕は
「ソウヤは、二つの世界を行き来できるの」
ソウヤはその問いには答えず、椎名の腕を少し引っ張った。あまり強い力ではないのに、すーっと前に進む。白い柵の真上まで来て、止まった。この時間帯に来ない場所とはいえ、ここまで近づけばさすがにわかる。
「うん。わたしが通ってた中学校だ」
「中学校って、何するところなの」
真っすぐに聞かれて、椎名は少し考えてから言った。
「ソウヤ。ソウヤの質問には答えるから、代わりにわたしの質問にもあとで答えてほしい。いい?」
「いいよ」
案外あっさりと合意され、拍子抜けしつつも、まずはソウヤの質問を考える。
「中学校は、勉強するところかな。数字の勉強とか、言葉の勉強とか、社会の……わたしが住んでいる国の仕組みとか。あとは多分、色んな人がいるっていうことも勉強するんだと思う」
「シーナは、中学校は楽しくないの?」
「知らない言葉とか、社会の仕組みとかを勉強するのは楽しいよ。何となく通り過ぎていたものごとが、意味のあるものとして自分の中に入ってくるから。知っていることが増える分、考えられることも多くなって面白いと思う。でも、人の勉強は正直、楽しくないかな」
言葉に出すうちに、椎名はこちらに来る
「クラスの人とか、先生とか。色んな人がいる。それを知るのも勉強だって父さんは言ってた。言いたいことはわかる。けど、なんか、居心地わるいんだ」
真横で手をつないでいるソウヤの顔は暗くて見えない。人の顔が見えないと、普段言いづらいことも口に出せるのだと気付いた。
「別に、わたし自身がいじめられてるわけじゃないし、むしろみんな仲良くしてくれてるんだと思う。でも、その人たちが作っている空気感みたいなのが嫌なんだ」
ソウヤは何も答えない。それをいいことに、今まで誰にも言ったことがない言葉を吐き出す。
「同じクラスの人が、突然いじめられるようになった。暴言を吐かれるのがもっぱら。でも、いじめられてる側も気が強くて、大抵の場合言い返してるから、いじめじゃなくてケンカっぽくなってるんだ。きっかけはいつもいじめる側からだし、投げつける言葉も
でも、担任にはケンカに見えてるらしい。へらへらとそんな様子を見てるだけ。わたしはそんなやりとりがくだらなくて、いじめられてる人とは普通に話してる。そしたら、「よくAさんと口聞けるよね。椎名は優しいね」とか言われる。わたしが優しいんじゃなくて、あなたたちが人間の心をもってないんだといいたい。でも、そこまで口に出せない。何かもう、そう言ってくる人たちと会話するのも疲れるから。なるべくエネルギーを使わずにやり過ごしたくて」
そこまで一気に言い切ってから、深く息を吸った。嫌なことを口に出すと、嫌な気分になる。しかし、心に溜めておくのも同じくらい、重苦しい気分になる。クラスメイトの名前だけは言うのをためらわれて伏せたが、押し付けていた
「A本人もあまりいじめられてるという意識はしてなくて、ガンガン言い返すか無視するかしてる。Aは学校の外で自分の時間をもってるから、学校で何があってもどうでもいいって思えるんだと思う。だから、Aとクラスの人たち、担任のやり取りを見て一番嫌な思いをしてるのは、わたしなんだ。
でも、いくら不愉快でも、当事者じゃないから誰に言ったらいいのかわからない。わたし以外、いじめだと思ってる人はいないから。もしあれが本当にいじめじゃないんだとしたら、わたしは学校に行くたびに感じる、このムカムカした気持ちをどこにぶつけたらいいのか、わからない」
「盾を作るといいよ」
それまで黙って聞いていたソウヤは、突然口を開いた。
「盾。この前つくったよ。そしたら、ヒウチさんに『感情のままつくる盾は
「それは違う」
ソウヤははっきり否定する。
「怒りに任せて、相手を傷つけようとしたり、とにかく相手に対して感情をぶつける盾は確かに壊れやすい。でも、シーナのそれは自分に対してぶつけている感情でしょ。盾は自分の心の動きを使って生み出すものだから、それは強い力になるよ」
「自分に対して、ぶつけてる?」
椎名は自分で口にして、気付いた。ムカムカした気持ちをぶつける先が無くてイライラしているのは、
「クラスメイトとか担任に対するムカつきとは別に、自分に対するイラつきもある。どっちもあるんだ、たぶん」
そういうと、ソウヤは頷いた。
「人に対するムカつきじゃなくて、自分に対するイラつきを力に変えれば、盾は自分を助けてくれる。ほんとうの盾は他者を積極的に
「自分を、他者から守る」
「今シーナの足元に展開している盾もそうだよ。シーナを、この世界の人たちから守ってる」
椎名はもう一度足元を見た。そもそも、出歩いている人の姿は見えないが、建物の窓や屋根から自分たちのほうを見る人影は見当たらない。ソウヤが扱うこの盾は、ただ空中に留まらせる(それだけでもすごい力だが)よりも大きな効果があるのかもしれない、と思った。
椎名は顔を上げ、ソウヤの顔を見た。表情はうかがい知れないが、盾の淡い光に照らされて青い瞳がきらきらと輝いている。
「わたしからの、質問。ソウヤはなんでそんなに、盾に詳しいの?さっき、盾者がつかう盾は元々ソウヤたちの力と言ったけど、ソウヤと盾者は、何が違うの」
「ヒウチは、シーナに僕のことを話してないんだね」
「うん。最初に会ってから、全然。あのとき、ソウヤが『余計なこと言わなくていい』って言ったからだと思うけど」
「そうかもね。でもちゃんと守ってるんだ。ヒウチ、偉いな」
ソウヤは小声でふふっと笑った。
「僕が盾に詳しいのは、僕たちが
「先住民族?」
椎名はとっさに、博物館で見たことのある、民族衣装を身に着けた人々の姿を連想した。確かに、ソウヤの外見は椎名の周囲の人とも、ヒウチたち中央府の人たちとも異なっている。
「そういうこと、なんだね。鏡界はあちらの世界の呼び方?」
「うん。ヒウチたちは知らないと思うけど。一生をひとつの世界で終える人にとって、世界の呼び名は意味が無いから。
でも行き来する僕にとっては不便だから、いつも住んでいる世界を
きょうかいとげんかい。
「そうだね」
ソウヤと椎名が思う「げんかい」の字は違うのだろうと思いつつ、椎名は頷いた。
○ ● ○
再びソウヤに手を引かれ、鏡界の
「何も見えない、何も知らないのが、一番怖い」
椎名の様子を見たからか、ソウヤはぽつりと言葉を
「だから、僕は幻界に行くし、シーナとも話す」
「わたしは、わからない存在?」
その問いには答えず、ソウヤは
「シーナ、また来るね」
椎名が何かいう間もなく、ソウヤは窓から飛び立った。暗闇の中に、彼が空中を蹴るたびに足元から舞い上がる、僅かな光の粒だけが輝いて見えた。それはまるで、尾を
闇夜を照らすかすかな光を、椎名は見えなくなるまで見つめていた。
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