暗い柚

「…………」


 ご飯をよそいながら、少し重たい空気を肌で感じる。

 柚の友達が帰宅し、現在夕食時。いつもであれば柚がすぐに夕食作りに向かうのだが、今日に限っては俺が夕食の準備をした。


 ……夕食を作る事になったのは、別に柚が友達と勉強会をしていたからではない。

 ただ————


「…………」


 ……柚の元気がないからだ。

 ソファーで一人足を抱えて顔を埋め、落ち込んでいる。

 何が原因か分からない。だから「……今から夕食の準備しますね」という言葉を蹴って俺が準備しているのだ。


 落ち込んでいる状況でご飯を作らせる訳にはいかない。

 悪い訳ではないんだが……こういう時ぐらい、俺が動くべきだとそう思ったのだ。


「喧嘩した訳じゃなさそうなんだよなぁ……」


 友達が帰った時もちゃんと見送りはしていた。

 口数こそ少なかったものの、喧嘩しているならわざわざ見送りなんてしないだろう。


 ————となれば、別の要因で落ち込んでいるという事。

 では一体何か? それは柚に聞かなければ分からない。


「柚ー、ご飯できたぞー」


 ご飯を柚の分までよそい、俺はお盆を持って柚に声をかける。

 お盆にはお椀だけで、実際の料理は既にテーブルに設置済み。


 並べられたのは、一人暮らしでよく作っていた野菜炒め。

 それに加えて、近くのスーパーで買ってきたお刺身に冷奴。


 ……誰だ! 手抜きのオンパレードとか言ったやつは!?

 一人暮らしなんてこんなもんだろうが!


「……ありがとうございます、橘さん」


 柚は立ち上がり、ゆっくりとテーブルまで近寄ってきた。


「ごめんなさい……私が作るはずでしたのに」


 いつもであれば「……橘さんの生活が垣間見える料理ですね」と言って、最後に「でも、ありがとうございます」と笑ってくれるはずなのだが、今はお礼だけだ。


「気にすんな。こんな料理でよければいつでも作るし、柚が作らなきゃいけない訳じゃないんだから」


 そうだ、感謝こそすれど感謝されるような事ではない。

 ……でも、いつもと違うから少し────


(嫌だな……)


 そんな感情が胸に渦巻いてしまう。

 柚が落ち込んでいる姿は、なんとなく見ていたくない。

 いや、他の人でも落ち込んでいる姿を見たくはないのだが……柚だと、何とかしてやりたいと、思ってしまう。


 それが柚個人的な問題だとしても。

 解決してやりたいと、そう思ってしまうのだ。


「なぁ、柚……」


「……どうかしましたか?」


 柚が座ったタイミングを見計らって、俺は声をかける。


「……何か、悩みとかないか?」


 おふざけとか一切なしのストレート。

 ここで茶化してみるのもいいかもしれないが、一刻も早く柚の気持ちを晴らしてあげたい。

 それ故、ストレートに聞いてしまった。


「悩みなんて……」


「悩んでいないなら何かあったのか? 本当はこういった事を聞くのは踏み込み過ぎって思われるかもしれないけど……あったなら、俺に話してみないか? 言ったら解決できる事もあるかもしれないし、可能な範囲じゃなくても柚の気分が晴れるまで協力するぞ」


 所詮、俺は赤の他人。

 踏み込み過ぎるのはよくない。

 良好な関係を築いていくなら、適切な距離を置かなければギクシャクしてしまう事もあるし、相手の反感を買う事もある。


 だけど……それでも、俺は────


「(橘さんって、本当に……)」


 柚がボソッと何かを呟く。

 残念ながらそれを拾う事はできなかった。


「嫌だったら言ってくれ……俺も、お節介の範疇を超えている事は理解しているから」


 理解しているからこそ、踏み込みたい。

 ……柚に元気になってやりたいから。


「……別に、喧嘩とかした訳じゃないんです。ただ、友達に言われた事を考えていただけで────」


 ポツリと、柚が口を開いた。


「『小さな幸せだけに満足しても、その先は掴めない』から、と」


「…………」


「その事がどうにも頭から離れなくて……他にも、あの時に感じた気持ちとか、その事が頭の中でいっぱいいっぱいになってしまって」


「…………」


「何が正しいのか、どうすればいいのかが分からなくて……」


 柚の言葉を、黙って聞いた。

 湯気が上がっていた料理も熱が冷め、一向に箸に手が伸びない。

 冷めていようとも、それでも黙って聞かなければならないと、そう思った。


「ごめんなさい……私の所為で、橘さんに気を遣わせてしまいましたね」


 そう言って、柚は力なく笑った。

 その表情は無理しているようにしか見えず、心配をかけないとしているようにしか見えなかった。


(……こういう時、茨さんだったら何て言うのかね?)


 柚の母親であれば────大人な茨さんであれば、ここは何て言うのだろうか?

 上手く柚を元気づける言葉を投げかける事ができたのだろうか?

 ……柚の事を一番に理解している茨さんならできそうだ。


 だけど────


「……柚がどんな気持ちでごっちゃになっているのかは分からない」


 俺は俺だ。

 大人になりきれない半端者の俺の……俺なりの言葉で元気づけてみようと思う。


「俺は、その友達の言葉は正しいと思う」


「……」


 柚の目が真っ直ぐに向けられる。

 そして、その瞳には「否定して欲しかった」という言葉が見えた気がした。


「小さな幸せばかりでは大きな幸せは得られない。楽という幸せをしているばかりでは大金を得られないように、小さな幸せを描くだけでは大きな幸せを彩るキャンパスを埋める事はできない」


 だけど、その言葉は正しいと感じた。

 少なくとも、俺はその友達の言葉が理解できる。


 でも────その先の意味合いまでは、違うと思う。


「でも、俺はその小さな幸せも悪くなっていないと思うよ。大きな幸せは確かに小さな幸せより幸せに感じるんだと思う────だけど、小さな幸せも同じ幸せで、金や宝石や地位で手に入れられないようなものだってあるから……小さな幸せばかりを見ているのも、悪くないんじゃないかって思うよ」


 大は小を兼ねるというが、必ずしもそうとは限らない。

 幾ら偉人になろうが、チヤホヤされるような功績を納めようが、会社の社長になろうが、その大きな幸せの中には小さな幸せが入っていない事だってある。

 入っていない……手に入らない事もあるんだ。


 一人になって自由な時間もお金も増えても、手に入らないものだってあったんだから。


「……その事は、最近よく実感したよ」


 俺は柚の顔を真っ直ぐに見返してそう言った。


 冷たいドアノブの感触がよく伝わってきたのに、今はどうしてかそう感じなくなった。

 静寂が帰ってきた自分をも包み込んでいたのに、今は明るい声が返ってくるようになった。

 いつも一人で食べる食事が……今となっては、楽しいものとなった。


 それは全て柚が教えてくれた事だ。

 一人暮らしで小さな幸せを掴めなかった俺が……小さな幸せに悪くないなと思ってしまったんだ。


「だから俺は、小さな幸せや大きな幸せに拘らなくてもいいと思う。大きな幸せも小さな幸せも、どちらも同じ幸せだ。どっちも、幸せに感じる────それでいいじゃないか。今が幸せなら、自分が満足しているなら、掴めなくても……俺は、それでいいと思うぞ?」


 ひとしきり言い終わると、俺はコップに注いだお茶を飲む。

 クサい台詞を吐いたかもしれないが、これは俺が本当に思っている事で、実感している事。

 俺は、この小さな幸せに満足している。


 それを柚に知って欲しくて────


「……そう、ですか」


 柚は、呟く。

 その時の表情は何処かスッキリしているように見えるけど……完全に、その悩みが拭えているようには見えなかった。


「ありがとうございます、橘さん。少しだけ、スッキリしました」


「……そうか。まぁ、何かあったら言ってくれ。子供は大人を頼るものだからな」


「ふふっ、だから私は子供ではありませんよ」


 だけど、これぐらいのやり取りができるぐらいには、元気になってくれたのだろう。

 拭いきれなかったのは少し不甲斐ないが、今はこれで十分だ。


「(……本当に、子供じゃないよ橘さん)」


 俯いて口にする柚。

 またしても俺の耳は拾えなかった。


(茨さん、これでいいですか……?)


 不甲斐ない俺はこれぐらいしかできませんでしたが、娘さんを預かっている身として安心できるような事はできたでしょうか?


 不安はある、心残りも疑問もある。

 だけど────


「橘さん」


「ん?」


「いただきますね」


 そう言って、箸を握ってくれた事が嬉しかった。


 これこそ、小さな幸せなんだと思う。

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