アパートの部屋を借りたら、天使な女子高生が家で迎えてくれるようになった。俺は、この少女を預かる事になった。

楓原 こうた【書籍6シリーズ発売中】

引っ越さないといけない

「いってきまーす」


 靴を履いて、誰もいない部屋を振り返る。

 その言葉に反応する声はなく、壁にかけた時計の針の刻む音だけが部屋に響く。


「…………」


 静かだ。一人を実感してしまう一日の始まりは、水槽の中に砂を混ぜたような感覚を抱かせてしまう。


 俺はこの時間が好きではない。

 虚しさと侘しさと寂しさをごちゃ混ぜにしたような感覚が、じんわりと胸に染み込んでくるからだ。


 ────一人暮らしだから、まぁ当然だろう。


「……行ってきます」


 俺はそっと、玄関の扉を閉めた。



 ♦♦♦



「通勤時間が一時間半って……先輩はアホタレですか?」


「先輩に向かってよくそんな口を叩けるよな、お前……」


 第一声が罵倒である。

 その事に、涙を禁じえなかった。


 十二月も中盤。スーツにコートと手袋をセットで身につけなくてはならなくなったこの頃。

 事務所の隣に座る女性にそんな事を言われた。


「いや、だって毎日通勤だけで三時間もかかってるんですよ? それだけ時間があれば何ができます? 映画見れますよ?」


「うるさいなぁ......俺だって引っ越したい気持ちはあるんだよ……けど、如何せん今の場所って結構家賃安いからなぁ。引っ越そうと思っても中々条件に合う物件が見つからん」


 俺―――—橘 新太(たちばな あらた)は愚痴りながらマウスをいじって画面をスクロールする。

 PCの画面には物件サイトが写っており、ぼんやりとタブを消しては開いてを繰り返していた。


 どうして仕事中にそんなサイトを見ているのか?

 その答えは至って単純で、俺自身が不動産会社で働いているからだ。


「お前んところって家賃何万だっけ?」


「私の部屋は七万ちょいですね。風呂トイレ別で築年数も浅くて二階オートロック付き……加えて、ここから近い鷺ノ宮です」


「家賃七万か……ちょいと高いんだよなぁ」


「そこは私もレディーですから、渋って後々何かあっては困りますので」


 確かに、彼女────霧島愛華きりしま あいかは見た目通りの年頃の女性だ。

 少し染めたブラウンの髪に、俺の肩ぐらいの背丈。整った愛嬌のある顔立ちにも関わらず大人びている雰囲気を感じる。


 それはきっと、霧島が社会に出ているからという理由と、彼女自身がしっかりしているからだろう。


 年齢は俺の一つ下で二十一歳。

 物騒な世の中だ。それぐらいの歳の女の子が一人暮らしをしているのだから、防犯面に気を使うのは当然だろう。


「まぁ、お前って結構美人だからなぁ……人一倍警戒するのも無理ないか」


「なんです? 口説いているんですか? 職場の? 後輩を?」


「ないない。ないから距離を取るな。普通に傷つく」


 女性に距離を取られるって地味に傷つくよね?

 いくら意識してない女性でも、何故か胸にクルものを感じるよ。


 それにしても、この前入社したばかりだって言うのに、俺に対する言葉遣いが馴れ馴れしいんだよな、こいつ。

 別に、敬意を払えって言ってる訳じゃないし、畏まられるのは俺の性格上やりづらい。

 だからこういう風に接してくれるのはありがたいけど……適応能力が高過ぎる。


「まぁ、そんな事より……引っ越す事は前向きに考えてるよ。ただ、条件に合った物件がないし、部屋の更新も近い訳じゃないから急いでない」


「そう言っているから、いつまで経っても片道一時間半の距離を毎日往復してるんですよ」


「仰る通りで」


 本当にその通りだ。

 何だかんだ理由をつけているだけでは、いつまで経っても引っ越せない。

 理由をつけている所為で、今もなお一日の自由時間を長い通勤に割かれているのだ。


 金の心配はない。

 前にいた自衛隊の時に稼いでいた金がたんまり残っているので、別に引越し費用ぐらいは余裕で賄える。

 だから、引っ越すのであれば早々に引っ越してしまうに限る。


 今は十二月。

 もう少し後になれば、入学する学生やら新卒の人がごぞって部屋を探しに来る。

 悠長に部屋を探してはいられなくなり、また春を過ぎるまで待たなくてはいけなくなってしまうのだ。


(本腰入れて探すか……)


 そうと決まれば、空いた時間は物件探しでもしよう。

 幸い、今は客が少ないからな。


「先輩、今思い出しましたけど、またポストに問題集入ってましたよ」


 そう言って、霧島は俺に薄い問題集を渡してくる。


「お、せんきゅー」


 早いなぁー。一昨日ポストに入れて置いたはずなんだけど。


「それにしても、先輩もよくやりますよね。毎週毎週、問題集を作ってはポストに入れてきて、うちのポストに返ってくる······それって茨さんの娘さんの為ですよね? もしかして、先輩狙ってるんですか?」


「ちゃうわい。狙ってたら色々とアウトだろ」


 別に深い理由はないが、こうして文通みたいな問題集のやり取りを俺はしている。

 相手は家主の娘で、大学受験を控えている高校生だ。


 色恋で気を引こうとしている訳じゃないが、昔話したやり取りが今も続いて、こうして勉強のお手伝いみたいな事をしている────まぁ、これは関係ない話だ。


「私としては、仕事と関係ない事を進んでやる······なんて考えられないですけどね」


「人の為に行動している────それって、素敵な事じゃないかしら?」


「気持ち悪い」


 この後輩は言葉がキツいなぁ。

 ちょっと茶目っ気を出してオカマ口調にしただけなのに。


「そういえば先輩、更新行かなくてもいいんですか?」


「あ……しまった。行かないとマズい!」


 霧島に言われ、俺は慌てて席を立つ。

 そして、デスクの上に置いてある更新料と書類をカバンの中へ急いで詰め込んだ。


 振込や郵送も多いご時世だが、そこまで大きくないうちの会社は、実際に家主の家に訪問するか、事務所に訪問してもらう事が多い。


 故に、こうして家主の家まで足を運ばなければならない事があるのだ。


「んじゃ、更新行ってきまーす」


「行ってらっしゃいです、先輩」


 契約書とお金を持って事務所を出ようとする俺に、霧崎が軽い見送りの言葉をくれた。


 仕事とはいえ、ちゃんと送ってもらえる事が、何となく嬉しかった。



 ♦♦♦



 自転車で家主の家の前までやって来た俺は、自転車を通行の邪魔にならないように近くに停めた。

 比較的事務所から近い場所にあるこの家主の家はアパートの中にあり、上の階を賃貸として貸して下に家族と一緒に住んでいるので、不動産で働いている人間として間違えないようにしないといけない。


 といっても、一階丸々家主の家なので大きさも玄関ドアの数も違うし、堂々と入口に表札があるので間違える事はな────いや、霧島が最近間違えたばかりだったっけ?


「まぁ、いっか······」


 生意気な後輩の事なんか考えるのはやめよう。

 少し訪問するのが遅くなってしまったし、早くしなければ。


 俺は急いで家主の家の玄関の隣のインターホンを押した。


「すみませーん! ネクストですー!」


『は〜い!』


 すると、インターホン越しではなくドア越しからそんな声が聞こえた。

 そして、バタバタと足音が聞こえてくると、勢いよく家主の玄関が開かれた。


「お待たせしました! どうぞ、上がってください!」


 玄関から現れたのは、サラリとした金髪を纏めあげた女の子。

 俺より何個下だったかな? それぐらい、いつも仕事で見るような人達より若かった。


 それより、とてつもなく可愛い。


 誰がどう見ても、天使のお出迎えである。

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