いってらっしゃい
休日というのは時間が経つのが早いもので、もう翌日の朝を迎えてしまった。
あの後、これといって買い物以外の目立ったイベントも発生する事なく、俺の荷解きで一日が潰れてしまった。
「……眠い」
「もう、朝なんですからしっかり気持ちを切り替えないといけませんよ」
朝食を食べながらそう呟く俺に、柚が軽い叱責を加える。
といっても、冬の朝は辛いものがある。恋しい布団、体温に合っていない外気、重たい瞼────どれもが今すぐ布団に入れと言っているのだ。
仕事行きたくない。
いや、行かなきゃ行けないんだけども。
「直ぐに気持ちが切り替えれるなら、皆起業してるよ」
「どういう理論ですか、それ……」
目の前で柚が呆れたため息を吐く。
高校生に呆れられるとは、俺もまだまだのようだ。
……単に俺がだらしないだけなのだが。
「それにしても柚は朝が早いよな……俺が起きると朝食の準備がしてあるし。辛くないの? 布団が恋人じゃないの?」
「布団が恋人なのは羽毛会社だけですよ。私には恋人がいません」
「後半の話に耳を傾けてしまうな……花真っ盛りの高校生だろ? 彼氏いないの?」
「彼氏はいないですよ。そ、その……欲しい、とは思っていますが」
モジモジとしながら顔を赤くして口にする柚。
「ほほう? その反応……さては、気になる男でもいるな?」
柚の態度がいつもと違い、それを見た俺はからかうように笑みを向ける。
すると、柚は箸を持った手をブンブンと振って否定してきた。
「い、いませんよっ! もうっ、何を言うんですか橘さん!」
「おうおう、いいからお兄さんに話してみそ? 隠すなんてもったいない、お兄さんが一生懸命からかってやろう!」
「だから言いたくないんです!」
えー、これも一緒に暮らしている同士のコミュニケーションじゃないかー。
というより、思春期女子のこの初心な反応……やはり、気になる男子がいるとみて間違いないだろう。
(それにしても、柚だったら簡単に付き合えそうなものだがな……)
容姿はずば抜けているし、学力も上位の成績にくい込むほど。
家庭的で優しく、からかった時の反応は可愛らしい。
……こんな完璧な女の子、放っておく男子がいるのか?
それはそれで気になる。柚の好きな人、ちょー気になる。
「やっぱり橘さんは意地悪ですっ!」
「家に呼ぶ時は何時でも言ってくれ。俺は近くのカプセルホテルでも職場にでも泊まろうじゃないか」
「ほ、本当に意地悪ですっ!」
「ははっ!」
柚をからかっているだけだが、朝から賑やかなものであった。
笑みが浮かび、少しだけ騒がしい喧騒が室内に響く。
それが、楽しくて仕方がなかった。
♦♦♦
「橘さん、これをどうぞ」
朝食を食べ終わり、仕事に向かう為玄関で靴を履いていると柚が小さな袋を手渡してきた。
「何これ?」
「お弁当です。お昼にでも食べてください」
弁当を作っていたなんて、どれだけ朝早くに起きたのだろうか?
……俺もこう見えていつもより少しだけ早く起きてるんだけどなぁ……。
「……すまんな、手間だったろうに」
「いえ、一人分も二人分も変わりませんから。それに、橘さんはお弁当を作っておかないと外食とかコンビニ弁当ばかりを食べそうなので」
「偏見だと言えない自分が辛い」
……そろそろ、俺の印象を変える為に食生活を見直す必要がありそうだ。
最近、柚が俺の面倒をみているという構図になっているように思えてくる。
「なぁ、どうやったら俺の印象が頼りになるお兄さんに戻ると思う?」
「そうですね……億万長者になって、癌細胞を治療する薬でも開発したら変わるかもしれません」
「ハードル高くない?」
この子は俺をなんだと思っているのか?
こちとら、ただの一般市民だぞ。
「ふふっ、別に変わって欲しくないという意味ですよ」
柚がそう言って可愛らしい笑みを向けてくる。
その微笑みに、思わずドキッとしてしまった。
「なんじゃそりゃ。こっちはこっちで男のプライドがある事を忘れるなよ?」
「いいじゃないですか。私は前の橘さんも嫌いではなかったですけど、今の橘さんの方が好きですから」
可愛らしいウインクを一つ添えて、恥ずかしげもなく柚が口にする。
この子は俺の四つ下で女子高生だ。ストライクゾーンも射程圏内も外れている。
なのに────
「……さっきの仕返しか、こら?」
「そうですよ? 私も、やられっぱなしの女の子ではありませんから」
────顔が赤くなってしまった。
ただ、正面から「好き」と言われただけで。
「はぁ……痛み分けで終わろうぜ。俺も悪かったからさ」
「ふふっ、そうですね。ここで切り上げて、早く学校に行かなければなりませんし」
確かに、これ以上玄関で話していても互いに遅刻するだけだ。
そろそろ切り上げた方がいいだろう。
それに────
(まぁ、変えなくてもいいのなら変えなくてもいいか……)
柚がそう思ってくれているのであれば、俺はそうしよう。
何せ、前までよりもこの距離感とイメージの方が仲良くなれている気がするのだから。
「そういえば、柚の制服見るの初めてだな。めちゃくちゃ似合ってる」
「ッ!? ……痛み分けで終わろうとか言いませんでしたか?」
「本心だからノーカウントだな」
「〜〜〜〜ッ!?」
立ち上がり玄関を出ようとする俺に向かってポカポカと叩いてくる。
顔が茹でダコのように真っ赤になりながら叩く柚を見て、思わず笑みを零してしまった。
「じゃあ、行くか。学校着く前には、その顔治しておけよ?」
「誰の所為だと思っているのですか!?」
そう憤慨しながら、柚は靴を履き終える。
そして────
「橘さん」
「ん?」
少しだけ間を空け、小さな笑顔を見せながら手を振った。
「いってらっしゃい」
────何処にでも聞くような言葉。
別に特別な意味がある訳じゃない、ただ柚は仕事に向かう俺にありふれたような言葉を言ってくれただけ。
……その、はずなのに。
「……柚も一緒に行くだろ?」
「そうですね。でも、言っておきたかったので」
────何故か、胸に染み込むような温かさを覚えてしまった。
今まで濁っていた水槽の水に、新しい透き通った水を流し込んだように。
だから、
「……いってきます、柚」
「はい……いってらっしゃいです」
俺は冷たく感じるドアノブを握りながら、そう答えた。
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