引越しが決まって
「えっ!? 先輩、いばら荘に引っ越すんですか!?」
事務所に戻り、部屋が見つかった事を霧島に言うと、何故か彼女は大声を出して驚いてしまった。
「まぁなー。茨さん、今度転勤で引っ越すんだってよ。それで空き家になっちゃうから俺が住まないか? って言われて、そこに決めたって訳」
霧島に話したのは俺が部屋を借りるという事だけ。
娘さんを預かるという事は話していない。
(ここで言っちゃう訳にはいかないもんなぁ······)
男性と女性が一つ屋根の下で一緒に暮らす────それ自体は問題ないかもしれない。
だが、相手は恋人でもなければ、結婚している訳でもない赤の他人。加えて、未成年であり高校生で家主の娘だ。
いくら両親の許可があるとはいえ、社会的には少し後ろめたい話。
問題はないけど問題がある────そんな状況にこれからなってしまうので、どうしても言う訳にはいかなかったのだ。
「なるほど……まぁ、確かにいばら荘だったら事務所から近いですからね。それこそ、徒歩圏内じゃないですか」
「そうなんだよ。通勤時間は丸っと短縮────家賃も格安で提案されたし、風呂トイレ別だし、広いし、風呂トイレ別だし」
「風呂トイレ別にこだわり過ぎでは?」
仕方ない。どうしても譲れない一線なのだから。
男であっても、風呂トイレ別は最低条件なんだ。
「おっ! ついに橘も引っ越すのか!」
そんな話をしていると、後ろから声が聞こえてきた。
振り返ると、スーツがはち切れそうなガタイをしている先輩が、嬉しそうな顔をして立っていた。
「……どうしてそんなに嬉しそうなんですか戸部先輩?」
「ん? これで橘を気兼ねなく飲みに誘えるだろう?」
相変わらずの酒好きだなぁ。
まぁ、別に飲みに誘われるのは嫌いじゃないからいいけどさ。
「戸部さん、飲みに誘うのはいいですけど、奥さん怒りません? この前、私と飲みに行って怒られませんでしたか?」
「それはあれだ。女と飲みに行ったから怒られただけだ。飲み自体は問題ない!」
「何故バレたのか気になるところだな」
「そうですね、事と次第によっては戸部さんとの接し方を変えなければいけません」
戸部先輩は、俺と八つ離れた先輩で、最近結婚した奥さんがいる。
戸部先輩曰く、奥さんとはラブラブらしく、愛情が凄すぎて幸せとの事。
その所為で、この前霧島が戸部先輩とサシで飲みに行った時、こっ酷く怒られてしまったと事務所の中で話題になった。
羨ましい────とは少しだけ思ってしまうが、結婚に踏み切るのはまだ早い。
色んな縛りが生まれてしまうし、お金もそれなりに貯まっているとはいえ結婚資金ほどじゃない。
それに、彼女いないし。
「というか、お前もよく先輩とサシで飲みに行ったよな? 抵抗ないの?」
「戸部さん、結婚してるじゃないですか。戸部さんが奥さんいるのに手を出すような人とは思えませんし、抵抗自体はないですね……まぁ、その時は私も飲みたい気分だったといのもありますが」
「二十一歳が一丁前に飲みたい気分……なぁ?」
「先輩も一個しか変わらないじゃないですか。人の事言えないですよ」
「馬鹿め、その一個の差はとてつもなく大きいのだよ、後輩くん」
「うざいです、先輩」
この後輩は本当に先輩に対する言葉遣いを学んできて欲しいところだ。
今時、先輩に「うざい」と言える後輩などいないだろうに。
「まぁ、引越し終わったら言えや橘! 奢ってやるからよ!」
「あざーっす」
「霧島も来るか?」
「三人で飲んで奥さんに怒られないのなら、喜んで同席させてもらいますよ」
俺達が首を縦に振ると、戸部先輩は上機嫌で自分の席へと戻って行った。
本当に、飲みに行けて嬉しいのだろう。
俺も誘われれば行くが、如何せん帰宅時間が長すぎた。
今まで先輩も俺を誘いづらい時もあったのだろう。だからこそ、こうして誘いやすくなった事に喜んでいるのだと思う。
それに、俺もこうして喜んでもらえた事に、少しばかり嬉しく思ってしまった。
「まぁ、これで戸部さんだけじゃなくて私も先輩を誘いやすくなりましたね」
「何? お前、俺と飲みに行きたかった訳?」
「それは……」
俺が少しだけからかうように投げかけると、一瞬だけ霧島が言葉に詰まらせた。
日頃からかってきたり容赦のない言葉をぶつけてくるんだ。
たまにはこちらからからかってみるのもいいだろう。
しかし、霧島はやり返すかのように俺に向かって笑みを浮かべた。
「先輩、こんな美少女からのお誘い·····嬉しいですか?」
その顔が、なんとも腹が立った。
だが、心の中で嬉しいと思ってしまった自分がいたので、その返事に顔をしかめてしまった。
「図星ですか、先輩?」
「……うっさい」
♦♦♦
それから少しの日付が過ぎ。引越し自体は、来週に入ってすぐにする事になった。
思った以上に茨さんの引越しが早く済みそうとの事で、俺もそれに合わせて動くようにするからだ。
俺は部屋を引き払う準備はとりあえず済ませ、後は期日までに荷造りを済ませてしまえば完了。
俺の部屋の荷物は少ない。
家具家電付きの物件だったので家電を処分する事はないし、私物もそんなに持っている訳じゃない。
あるとすれば、四着のスーツにダンボール一つで収まりそうな私服ぐらいだ。
『来週から、よろしくお願いしますね、橘さん』
「…………」
仕事が終わり、自宅に帰って俺はベッドに転がりながら、そんな文章を眺めていた。
連絡先を交換してからというものの、ちょくちょく雑談をしてきたのだが、いざこういう文章が送られてくると本当に引っ越すのだと実感してしまう。
「俺が娘さんを預かる……ねぇ?」
何とも現実的じゃない話だ。
まだまだ若造な俺が高校生を預かるなんて、フィクションなのではと疑いたくなってしまう。
────責任問題未だに拭いきれない。
茨さんに「よろしくね」と言われてしまった。
だったら、俺が預かるにあたって注意しなくてはいけない事は「娘さんを危険な目に合わせない事」だろう。
過保護────そこまでじゃなくとも、自然に……普通に過ごしていけるように俺がサポートして見守っていけばいいだけの話だ。
言えば簡単。
特別な事をしろって訳じゃない。
茨さんも、俺の生活を無理矢理崩してまで面倒は見てくれなくていいと言っていた。
手を出すなんて事はせず、ただ一緒に暮らして、少しだけ目を光らせて置けば済む話。
彼女も、子供の中でもしっかりとした高校生なのだから。
(でもこうして不安が拭えないのは、多分俺がまだまだ未熟だからなんだろうな……)
すぐ大人になりたい訳じゃない。
だけど、娘さんを預かるのであれば未熟なままじゃいけないだろう。
(大人になれない子供のままか、俺は……)
とりあえずと、俺はスマホを操作する。
『こっちこそ、迷惑かけるかもしれないけどよろしくな』
俺はスマホをベッドに投げ捨てる。
そして、窓から覗く色と不釣り合いな天井の灯りを、ただぼーっと眺めた。
「大人に、なりたいなぁ……」
部屋の静寂が、自分の中に潜り込んでくる。
多分、大人じゃないから、こうした静寂を強く意識してしまうのだろう。
それが、寂しく感じた。
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