〜side柚〜 頼りになるお兄さん
(※柚視点)
────私が橘さんと出会ったのは、今からちょうど二年前の頃だ。
♦♦♦
「ただいま」
いつものように学校から家へと帰り、玄関の扉を開けた。
いつもであればお母さんの「おかえりなさい」の声が聞こえるはずなんだけど、今日に限ってはその声が聞こえなかった。
「見た事のない靴……お客さんかな?」
玄関には茶色いビジネスシューズが一つ。
お父さんはこの色の靴は持っていなかったから、多分お客さんのだと思う。
私は特に気にする事もなく、靴を脱いでリビングへと向かう。
すると、リビングには一人の男の人がお母さんの正面に座っていた。
「あ、おかえりなさい柚」
「うん、ただいまお母さん」
お母さんが私に気がつくと、すぐ様男の人も私に気づいた。
そして、軽く会釈を私に向けてくれたので私も会釈で返す。
「紹介するわ、娘の柚よ」
そして、お母さんは私を指さして男の人に紹介する。
男の人は少しだけ驚いた顔をすると、再び私に向かって会釈をした。
「初めまして。私、この近くの不動産で働いている橘新太と申します。茨さんには、いつも大変お世話になっております」
あ、あぁ……そっか。
この人、うちの『いばら荘』を紹介してくれている不動産だったんだ。
「は、初めまして……私、茨柚って言います」
初めての人と話すのは緊張する。
若干声が上擦ってしまい、言葉が詰まってしまったのは多分気の所為じゃないのだろう。
見た目は私より少しだけ年上……?
スーツを着ているから社会人なのは分かるけど、大人っていう感じとはちょっと違う雰囲気がする。
でも、物腰は落ち着いていて頼りがいがありそうな人だと思った。
────私の橘さんへの第一印象はそんな感じだった。
「……随分、可愛らしい娘さんですね」
「ふふっ、そうでしょう? 自慢の娘なんだから」
それを娘の前でしないで欲しい。お世辞だって分かっているけど、いざ正面から言われちゃうと……普通に恥ずかしい。
私はそんな二人から少し離れて、テレビの前に鞄を置いた。
(今日は勉強しようと思ったんだけどなぁ……)
二人を一瞥しながら、二つ埋まっているこたつを見る。
当時の私は中学三年生。志望校へ入学する為に勉強しないといけない時期だ。
勉強は自分の部屋ですればいい────それはそうなんだけど、リビングにはこたつがある。
今は真冬。そんな季節の時に勉強していては寒くて集中できず捗らない。
どうせなら、こたつがある暖かい環境の方が勉強は捗る────だから、私はリビングで勉強がしたかった。
だけど、今日初めて会った人の隣でするのは少し気まづい。
私は、そこまでメンタルが図太い訳じゃないから。
(……後にしよう)
別に今すぐしなければいけないって訳じゃないんだ。
だから私はすぐに勉強する事を諦めて、自分の部屋に戻ろうとした。
すると────
「すみません。今すぐ退きますね」
橘さんは、こたつから出て立ち上がった。
何も言っていないのに、私が座りたいと……勉強したいんだろうって気づいたんだと思う。
勉強はしたいって思ってたけど、流石に退いてもらってまで勉強したいとは思わない。むしろ申し訳なく感じてしまう。
「べ、別に大丈夫ですよ!? 座ってください、橘さん!」
「しかし、こたつに入りたそうにしていましたよね? 私がいてしまうと、ゆっくり寛ぐ事もできませんから……」
「だ、大丈夫ですからっ! 橘さんが入っても、こたつはまだ座れますから!」
思わず必死になってしまった私に、橘さんは少しだけ渋る表情を見せる。
それがどうしても申し訳なくて、気にしないというアピールも兼ねて勢いよくこたつに入った。
「そ、そうですか……では、お言葉に甘えさせてもらいますね」
少しだけ私の様子に戸惑ったけど、橘さんはゆっくりと私の右側へと腰を下ろしてこたつに入る。
変な人って思われてないかな? それだけが少し心配だった。
(い、勢いで入っちゃったけど……やっぱり気まづいなぁ……)
本当なら立ち去って自分の部屋に行くつもりだったのだ。
けど、湧き上がる申し訳なさが私をここに留まらせてしまい、初対面の人と同じ空間という事に気まづい思いを抱いてしまう。
そんな私とは対極に、橘さんは落ち着いている。
社会人だからこんな状況でも落ち着いているのかなぁ?
「あ、そうだわ! 柚、せっかくだから橘くんに勉強見てもらったら?」
「ふえっ!?」
お母さんの唐突な言葉に、私は驚いてしまう。
勉強はしなくちゃいけない。けど、いきなり初対面の人に教わるなんて事は流石に無理だった。
確かに、私よりも年上で社会人な橘さんに教えてもらった方が捗るかもしれない。
でも、捗る以前に私が緊張してしまって勉強どころじゃなくなるだろうし、橘さんも仕事で来ているから、仕事ではない事まで引き受けないと思う。
「えーっと……私、高卒の人間ですが……」
あ、橘さんって高卒だったんだ……。
「柚は今年高校受験なの。何も大学受験に向けて教える訳じゃないから大丈夫よ」
「そうかもしれませんが……」
橘さんは困った表情を見せて、私をチラッと見た。
助けを求めているのではなくて、どうしようかと迷っている感じだ。
そして、少しだけ考え込むと橘さんは小さく頭を下げた。
「今日はこの後予定があるので難しいです」
「あらそう……それはちょっと残念ね」
残念というが、正直私はホッとした。
初対面の人に教えてもらうなんて、本当に緊張してしまうから。
だけど────
「ですので、もしよろしければ高校受験向けの問題集を用意させてもらおうと思います」
「……え?」
「いいの、橘くん?」
「えぇ……茨さんにはお世話になっていますし、私も娘さんには頑張って合格してもらいたいですから────もちろん、全然強制とかじゃないですよ? 期限までにやれとも言いませんし、気が乗れば解いてみてください」
そう言って、橘さんは柔らかい笑みを向けてくれた。
その時の橘さんは、頼りになる優しいお兄さん────なんて姿をしていた。
でも、この時の私はその言葉を信じていなかった。
仕事とは関係ない事だし、初めて会った人に対してそこまでする事はないだろうって。
「ありがとうございます、橘さん」
そう思いながらも、私は橘さんにお礼を言った。
♦♦♦
「……えっ?」
次の日の朝。
玄関ポストに一冊の問題集が入っていた。
市販の問題集だ。
だけど、所々に付箋が貼ってあって、捲ると蛍光ペンで問題が綺麗に分けられている。
表紙には『余計なお節介かもしれないけど、受験で出題されそうな問題を蛍光ペンで印つけているから、暇な時に解いてみて欲しい』と大きな付箋に書かれてあった。
「本当に持ってきてくれたんだ……」
意外というか、なんというか……とにかく、私は驚いた。
暇な時……なんて書いてあったけど、とりあえず私は家に帰ってきてからその問題集を解いてみた。
せっかく持ってきてくれたんだし、その行為を無駄にしては失礼だと思ったからだ。
問題集を解いた私は返す場所が分からず、お母さんに橘さんの働いている場所を聞いて、その事務所のポストに入れておいた。
♦♦♦
「……また、入ってる」
次の日、またポストの中に問題集が入っていた。
今度は問題集が二冊。一つはこの前解いた問題集で、全ての問題が採点されており、加えて間違った箇所に解説みたいな言葉も添えられていた。
もう一冊は新しい問題集。
この前と同じで、付箋が何ヶ所も貼られて蛍光ペンで問題が分けられていた。
「見てくれたんだ······」
真面目な人なんだなと、私は思った。
♦♦♦
それから、解いたらポストに入れ、再びポストに問題集が返ってくるという日々が続いた。
解説も分かりやすくて、一人で勉強するより遥かに捗るのを実感していく。
下手すれば、学校の授業よりも実になったと思っている。
嬉しいし、感謝している。
だけど────
「橘さんに、何のメリットもないのになぁ……」
お金を払っている訳でもない。
仕事とは全く関係ない。
むしろ、問題集を買うお金や、仕事終わりの自由時間を奪ってしまっているのだ。
それなのに、橘さんは欠かさず解けば返してくれて、新しい問題集を用意してくれる。
どうしてそこまでしてくれるんだろう?
それがどうしても疑問で、次に橘さんに会った時に聞いてみた。
すると────
『茨さんにはお世話になってる、っていうのもあるけど……やっぱり、娘さんには受験に合格して欲しいからね。ちょっとだけ大人になった俺からのお節介みたいなものだよ』
────そう言ってくれた。
全部私の為だけ。それが本当に嬉しかった。
このやり取りは、高校に入学してからも続いている。
おかげで、今の私の成績は上位にくい込むほどにまで伸びていった。
『面倒見のいい優しいお兄さん』
そんな印象が、この続いてるやり取りで確信に変わった。
だからこそ、私は────
「お母さん、私……預かってもらうなら、橘さんがいい」
そう言ったんだと思う。
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