飲みのお誘い

「ん〜! やっと終わりました〜!」


 窓から覗く景色が黒に染まった頃。

 隣に座る霧島が大きく背伸びをして疲れた体をほぐしていた。


 確かに、今日はお客さんがあまり来なかったからデスクワークが多かった。

 机に座りっぱなしというのは辛いもので、俺も霧島のように背伸びをしたくなってしまう。


「お疲れ、霧島」


「お疲れ様です、先輩。何か今日は一日が長く感じたような気がします」


「まぁ、お客さんがあまり来なかったしなー。基本は物取り候補を探してた一日だから長く感じるのも無理はない。事実、俺もそう感じていた」


「来たお客さんも、全部戸部さん宛に来てましたからねー」


 終業時間を超えたからか、霧島は立ち上がって荷物を鞄にしまっていく。


「お前って毎回直ぐに帰るよな」


「残業はしたくない派ですから。それに、今日は友達と会う約束をしているんですよ」


 霧島は課業が終われば直ぐに帰宅する。

 もちろん、うちは残業は推奨しておらず残業する仕事は翌日に回すスタイルなのだが、一際早く帰るのが霧島なのだ。


 それほどまでに早く帰りたいのか? まぁ、家に帰ってやりたい事もあるんだろうし、プライベートに首を突っ込む気にはならないから別にいいのだが……気になってしまうのは、好奇心故だろう。


「橘〜、霧島〜! 飲みに行くぞ〜!」


 その時、背後から野太い声が聞こえてきた。

 その声の主はどうやら俺達を名指し指名しているようで、目的もアルコール摂取に付き合えというものらしい。


「今日は予定があるので無理です、戸部さん」


「お、そうか……それは残念だ」


 霧島が即答で断ると、後ろに現れた戸部先輩がしょんぼりと肩を落とした。

 本当に飲みに行きたかったのだろう。悲しさオーラがぷんぷんである。


「橘は……」


 そして、戸部先輩の視線が俺に向けられた。

 どうやら、霧島が行かずとも行きたいらしい。


(けど、もしかしたら柚が既に飯を作ってる可能性があるんだよな……)


 今の俺は一人暮らしではない。

 同居している人間がおり、ましてや食事は全て任せっきり。

 であれば、突然「飯食って帰るわ」なんて言ってしまえば柚に迷惑がかかってしまうだろう。


 真面目で家庭的な柚の事だ、既に作っている可能性がある。

 ……いや、この前同棲を始めたばかりだが、もう俺の帰宅時間を調整して出来たての状態で飯が準備されているかもしれない。


「すいません……俺も今日はパスしておきます」


「なんだ、橘もか……今日は飲む気満々だったんだがなぁ……」


 俺が断ると戸部先輩が本当にしょんぼりとしてしまった。

 何故か湧き上がる罪悪感が辛い。


「戸部さんもたまには奥さんと飲んできたらどうですか? 夫婦の時間って大事だと思うんですけど」


「いや、カミさんは酒を飲まないんだよ。だから俺も家では飲まないようにしている」


「なるほど……だから俺達を結構な頻度で飲みに誘うんすね。こういう時じゃないと飲めないから」


「いや、家で飲めるようにしましょうよ。別にそれぐらいだったら奥さんも許可してくれると思いますけど……」


「許可はもらってあるぞ? ただ、俺が気を遣っているだけだ」


 奥さんに優しいなぁ、戸部先輩は……。

 だけど、自分のアルコール摂取を抑えられないんだったら、その気は回さなくてもいいと思う。

 ぶっちゃけ、霧島の言う通り二人の時間を作ってあげて欲しい。


「はぁ……明日だったら私は行けますよ」


 落ち込む先輩を見かねたのか、霧島はため息をついて戸部先輩に言った。

 すると、戸部先輩は急に目を輝かせ始めた。


「本当か!?」


「凄いですね。そこまで飲みたかったのかとツッコミを入れたくなります」


 そこまで言ったらツッコミを入れてもいいと思うが。


「ただ、私が飲みに行くなら先輩もいないとダメですよね? この前怒られたばかりなんですから」


「そうなんだ! だから、橘……!」


 輝いた目が俺に向けられる。

 眩しい……! 思わず衝動的に頷いてしまいそうだっ!


「わ、分かりました……明日は俺も行きますんで……」


 ……衝動というより、勢いに負けて頷いてしまった。


「流石は橘! 俺はいい後輩達を持てて幸せもんだ!」


 そして、感極まった戸部先輩は俺と霧島肩に手を回して嬉しそうに笑うのであった。


「……先輩、これってセクハラになりますか?」


「……その手がお前の慎ましい胸に触れたら訴えてやれ」


「先輩のその発言も怪しいラインですからね?」


 戸部先輩の暑ぐるしさを受けながら、霧島にジト目を向けられる。

 その時、俺の頭には二人の事以外の事が浮かんでいた。


(……さて、柚になんて言おう)



 ♦♦♦



 吐く息が白く見え、街灯に照らされた帰路を歩きながら、先程の続きを考えていた。


(飲みに行く……どうしたもんかね?)


 飲みに行く事自体、別に俺は悪いとは思っていない。

 これは何処の会社でもそうだが、会社の人間とのコミュニケーションを取る一環としてはいい役割を持っているし、飲みに行った事で仲が深まり職場の環境が良くなる事もある。

 だから俺は極力は断る事はしない。俺自身、飲む事が好き────という理由もあるのだが。


 だから、今までの俺だったら「行く行かない」で悩んでいない。

 迷わず行くと言っている。


 だが────


(柚に言えば許可はくれるだろうが、残った柚はどうするか……)


 柚は優しい子で理解もある少女だ。

 先輩と飲む事が悪いとは考えていないだろうし、理由を話せばOKはもらえると思う。


 だけど、俺が飲みに行っている間は柚は家で一人っきりだ。

 茨さんに託されて預かっている立場として、極力一人という自体は避けたい。


 ただでさえ、仕事が終わる時間と学校が終わる時間が違うのだ────今も、柚は家で一人暮らしだろう。


 ……正直、数日しか経っていないはずなのに、超心配なんだ。

 責任問題もあるが、単純に柚の事が心配で────


「茨さんも、こんな気持ちだったのかね……?」


 ポケットに手を突っ込み、薄らと星が光る夜空を見上げる。


 そんな事をしても、茨さん達の気持ちなんか分かるはずもないと言うのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る