信用してください

 あれこれ考えているうちに、俺はいばら荘の前まで辿り着いてしまった。

 結局、どう話したらいいものか、柚をどうしようか……そこに具体的な考えなど浮かばず、ただ帰路を歩いて帰っただけ。


「……まぁ、柚に相談すればいいか」


 あれこれ一人で考える訳にはいかない。

 俺が勝手に決めても、結局は柚の意見も尊重しなければならないのだから。


「ただいまー」


 一階部分にある玄関の扉を開ける。

 何処で生活しようと、外気に晒されたドアノブは冷たく、握るのを躊躇ってしまう。

 ────だけど、今日はだけは違った。


「おかえりなさい、橘さん。今日もお疲れ様です」


 玄関を開けると、真っ暗な室内ではなく茶色く彩られた室内が視界に入り、優しい言葉を投げかけてくる声が聞こえてきた。

 たった今玄関を開けたばかりだというのに、猫の柄がついたエプロンを学生服の上から着た少女が玄関前に現れている。


「……おう、ただいま」


「ふふっ、どうしたんですか? 橘さん、呆けた顔をしてますよ?」


「そんな顔してるか?」


 顔をぺたぺたと触ってみる。

 特段、口も開いていた訳じゃなさそうだし……そんな事はないと思う。


「ご飯はできているんですけど……先にお風呂入っちゃいますか?」


「もしかして、お風呂沸かしてくれたの?」


「はい。この時間に帰るだろうと思いまして、沸かしておきました」


 なんてよくできた子なんだろう。

 茨さんの教育は素晴らしい。


「……先にご飯食べていい? 俺、結構腹が減っているんだ」


「では、ちょっと準備しますから着替えてきてください。スーツが皺になっちゃいますから」


 そう言って、柚はさり気なく俺の鞄を取ると、そのままリビングへと戻っていった。

 俺も着替えてこないと────そう思って靴を脱ごうと思ったのだが、どうにも足が動かない。


「…………」


 動かそうと思えば動かせる。

 痛い訳でも何かに取り憑かれた訳でもない。


 胸に染み込むような温かさ。握ったドアノブは冷たかったけど、玄関を開けると全てが明るかった。


『おかえりなさい、橘さん』


 いつもは反芻するだけの俺の声に対して、優しい声が返ってきた。

 そして、笑って出迎えてくれる。


「……なるほど」


 俺は足が動かない事に納得した。

 ……きっと、この胸に染みる感触をを噛み締めていたいんだ。


 いつもとは違う、この瞬間を。



 ♦♦♦



「柚、俺は相談するぞ」


「だ、誰にですか……?」


 俺がそう言うと、柚は戸惑った様子で頭に疑問符を浮かべる。

 確かに、今の発言は色々文章がおかしかったのかもしれない……ちゃんと訂正してもう一度。


「実は、柚に相談したい事があるんだ」


「あ、私にだったんですね……」


「その通りだ────あ、この肉じゃがめちゃくちゃ美味い」


「ふふっ、ありがとうございます」


 俺はスーツを脱ぎ、部屋着として使っている薄手のパーカーに着替えて、現在柚と一緒に食卓に座っている。

 目の前に並ぶのは肉じゃがに焼き鮭、味噌汁に白米。どれも美味しそうな匂いを漂わせていた。


「この鮭も何とも……味噌汁はシンプルに豆腐とわかめだが、それが返って味噌汁の味を邪魔しないから、舌に染みるように味わえる……ぐっじょぶ」


「絶賛ですね。そう言ってもらえると、作った側としては嬉しい限りです」


「うまうまー。ちょーうまうまー」


「もうっ、褒めても何もでませんよ?」


 チラりと柚の方を見ると、少しだけ顔が朱に染っていた。

 落ち着いていたようで、もしかしたら相当喜んでいるのではないだろうか?


「それより────ご相談ってなんですか?」


「うまうまー」


「話を戻させてくださいっ!」


 少しだけ荒上げた柚の声に、俺はビクッっと肩を震わせしまい、旨みの沼から現実へと戻ってきた。

 いかん……あまりの美味しさでつい夢中になってしまった。


「美味しそうに食べてくれるのは嬉しいですけど……橘さんから言い出した事なんですからね」


「いや、本当にすまん……」


 柚が頬を膨らませてジト目で見てくる。

 だけど、全く怖くない。むしろ可愛い。


 柚と同年代の少年よ、刮目せよ。これが美少女はどんな表情をしても可愛いという証左だ。


 ────なんて脇道に逸れてばかりでは柚が話を聞いてくれなくなってしまう。

 言い出したからにはしっかりと軌道修正しなければ。


「実はな、先輩に明日飲みに誘われたんだ」


「お帰りはいつ頃でしょうか? もし遅くなるようでしたら、帰りの戸締りはしっかりしておいて下さいね。十一時まででしたら私も起きてますから大丈夫ですけど、それ以降だと私は寝てしまうので」


「お、おう……」


「会社の人とのお付き合いもあるでしょうから強くは言いませんけど、お酒はほどほどにして下さいね? 明日もお仕事なんですし、飲みすぎてご飯が食べられない……という話はダメです。お体を壊してしまいますから、程よくが大事です」


「は、はい……」


 何故か、一方的に言われてしまった。

 戸締りの話から、俺の体調の心配まで────まだ「飲みに誘われた」としか言っていないんだが……。


「いや、な……? 相談っていうのは、飲みに行ってもいいかって話で、まだ行くと決めたわけでは……」


 そうは言っているが、実際に戸部先輩には頷いてしまった。

 でも、ここで無理という話になれば明日断りを入れるから問題ない。


 あくまで、優先すべきは柚なのだから。


「別に行ってきても大丈夫ですよ? もちろん、美味しいって言ってもらえないのは寂しいですが……一食だけですし、我慢します」


「ほら、俺がいないと柚が一人だし……」


「橘さんが帰ってくるまで私はいつも一人です。その時間が伸びるだけですから問題ありません」


「何か危ない目にあったら……」


「橘さん……そこまで行けば、過保護ですよ?」


「っ!?」


 柚の少し呆れたような目が俺に突き刺さり、思わず言葉を飲み込んでしまった。

 そして、柚は箸を置いて真剣な表情を向けた。


「私は橘さんの生活の邪魔をしたくありません。私が無理を言ってしまったのです、私の存在で橘さんの自由を束縛するなんて……私は嫌です」


「別に柚の所為じゃないし……」


「それに、私は一人でも大丈夫です。確かに、ずっと一人で暮らせ────そう言われてしまえば、不安に思われるのも分かりますが、今回はたった一夜です。それぐらいの時間であれは不安に思うような事もありませんし、起きません」


「…………」


「もっと信用してください。たった数日しか一緒に暮らしていませんが……それでも私を信用して欲しいです」


 その言葉を聞いて、俺はハッとさせられる。


 信用……確かに、俺は何処かで疑っていたのかもしれない。

 一人にさせてはいけない。一人にさせてしまえば何か起こるのではないか? 危険な目にあうのではないのか? 柚一人では無理だと決めつけていた自分がいた。


 柚は家事もできるし、しっかりした女の子だ。

 たった数時間────それだけの時間を一人にしても、柚なら問題ないはずなのに。


(過保護……その通りなのかもな)


 責任と柚自身を大切に思っている事。

 これがせめぎ合って、きっと信用という言葉がすっぽり抜けてしまったのだろう。


「……悪かった。柚の事、信用するようにする」


「はい、そうしてください……」


 これは反省点だ。

 もう少し余裕を持っていれば、こうして年下の女の子に言われる事もなかっただろう。

 その面も踏まえて、俺はまだまだである。


「ふふっ。それにしても、橘さんは意外と心配性だったんですね。頼もしいお兄さん印象がどんどん崩れてしまいます」


「仕方ないだろ……数日しか過ごしていないが、それだけ柚存在が大きいって事なんだから」


「っ!? そ、そうですか……」


 素直にそう言うと、柚は顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 照れているのだろう。でも、これに関しては紛れもない本心なのだ。


(やっぱり、俺には上手くこなせる事はできないな……)


 顔を赤くする柚を見ながら、俺はそんな事を思った。

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