提案を受けたその後

「それじゃあ、俺はこの辺で失礼します」


 それから、細かな話をして俺は事務所に戻る事にした。

 家賃は毎月二万。東京でこの広さにも関わらず二万の家賃はかなり破格だ。

 始めは「娘を預かってもらうんだから、家賃はいらないわよ」と言われたが、借りている身としては、流石にお断りさせてもらった。


 申し訳ないという気持ちが強すぎる。

 本音を言えば、二万という金額も直してもらいたいくらいだった。


 だから、今回の提案はあくまで普通の『部屋を借りる』という行為。

 その条件に、『娘さんを預かる』という項目が増えただけに過ぎない。


 ────茨さんが引っ越すのは来週頭。

 俺もそれに合わせて引っ越す事になり、既に合鍵預かって茨さんと連絡先の交換をする事になった。


「今日はありがとうね、橘くん……本当に、無理なお願いしちゃって」


「いえ、気にしないでください。俺にもメリットは沢山あったので」


 茨さんが玄関まで見送ってくれる。

 その後ろには、天使のように可愛らしい娘さんもいる。

 親子揃ってのお見送りとは、俺も随分気に入られたぜ……なんて、思いたいなぁ。


「橘さん、本当にありがとうございます」


 今度は娘さんまでもが頭を下げる。

 うーむ……流石に二回も頭を下げられるのはむず痒い。


「娘さんも、そんなに気にしないでくれ」


「で、ですが────」


「ですがって言われても、俺は単に破格のお家賃に目が眩んで了承しただけだ。勘違いしてもらっては困る」


 まぁ、家賃の話は首を縦に振ってからだったが。


「そ、そうですか……」


 すると、何故か娘さんは少しばかり頬を染めて俯いた。

 どうしたのだろうか? 風邪でも引いたのか? 確かに、冬になって一気に寒くなったからなぁ……。

 娘さんの体調が心配である。


「じゃあ、私は寒いから戻るわね。後はお二人さんで」


「え……」


 そう言って、これまた何故か茨さんがニヤニヤしながら家の中へと戻っていった。

 あれ? 俺、これから事務所に戻るだけだし、特段話し合う事なんて────あ、あぁ……これから預かるんだから、改めてよろしくとでも言わないといけないのか。


 ……これも社会人マナーなのだろうか?

 やはり、俺は大人にはなりきれていないようだ。


「…………」


「…………」


 茨さんがいなくなってから、俺達の間に気まづい雰囲気が流れる。

 今思えば、それもそのはず。何せ、俺は茨さん以上に娘さんとは話した事がない。


 問題集のやり取りがあったとはいえ、それ以外の接点がなく、同じ年代の友達ではなく歳が微妙に離れている。

 容姿が整っているという理由もあるが、社会人になってからこの年齢の女の子とあまり話した事がないから緊張してしまう。


 大人のように余裕を持って接すれば────なんて思うが、正直大人とは言い難い年齢。

 大学に通っていれば、俺はまだ大学生なのだ。


(沈黙は、互いに余裕がない証拠……)


 いつか先輩がそんな事言ってたっけ?

 今思えば、先輩の言っている意味が深く分かった気がする。


 きっと、こうして緊張しているのは俺が余裕がないから……大人じゃないから、なのだろう。

 それでも会話が進まないままではダメだ。

 話すにしろ直ぐに帰るにしろ、このまま黙って帰る訳にはいかないからだ。


「あのさ、娘さん」


「ッ!? な、何でしょうか!?」


 声をかけると、娘さんは肩を震わせて上擦った声で返事をする。

 綺麗な金髪が、ゆらゆらと揺れてしまった。


(おぉう。俺以上に余裕がなかったとは……)


 だけど、落ち着くのを待っていたら事務所に戻るのが遅くなってしまう。

 ただでさえ、結構時間を費やしてしまったのだから、よろしくだけ伝えて早く戻ろう。


「色々……正直、今でも若干戸惑ってるけどさ────これからよろしく」


 少しだけ笑顔を浮かべて、俺はちゃんと言葉にする。

 期間にすれば二年もない事だが、それまでの期間は俺が預かるのだ。


 責任持って、娘さんに迷惑をかけないように、邪魔にならないよう見守っていこう。


「……ふふっ」


 ────なんて、決意したはずなのに……何故か娘さんが少しだけ吹き出して笑ってしまった。


「あれ……? 俺、何かおかしな事でも言ったか?」


「あっ! い、いえ……橘さんでも、戸惑う事があるって聞いて……少し笑ってしまいました」


「逆に、いきなり娘を預かってくれって言われて戸惑わない方がおかしいと思うが?」


 そんな人間、いるなら連れてきて欲しい。

 ……ほら、早く! 怒らないから!


「ふふっ、そうですね……確かに、言われてみればその通りです。橘さんって、逞しいって感じのイメージでしたので、少し笑っちゃいました」


「逞しいって……これは一般的な反応だ。逆に、それを笑われてしまえば、俺はこれから娘さんに対して一般的じゃない反応をしなくてはいけなくなる」


「それはそれで見てみたい気も……」


「勘弁してくれ。俺は芸能界に入りたい訳じゃない」


 やれやれ、と。俺は肩を竦める。

 その様子を見て、娘さんも緊張した表情から徐々に普段通りの余裕を見せ始めてくれた。


 ……これぐらい空気の方が、ちょうどいい。

 そう思えるほどは、だいぶ俺も余裕を持ててきたようだ。


「じゃあ、俺はこれで仕事に戻るから────また、採点してポスト入れておくし、来週には俺も引っ越せると思うから、新しいのはその時にやってきてくれればいいよ」


 そう言って、俺は家の前の道路の隅に置いている自転車の元に向かう。

 自転車の鍵は……ちゃんとあるし、更新書類もちゃんともらった。


(……じゃあ、早く戻るか。霧島や先輩に何か言われそうだし)


 カバンを籠に入れ、自転車の鍵を刺した。

 その時────


「あ、あのっ!」


 後ろから、娘さんが俺のジャケットの袖を引っ張ってきた。


「どうしたの娘さん?」


 俺は振り返り、赤くなった娘さんの顔を覗く。

 整った顔が眼前にあり、仄かな甘い香りが俺の鼻をくすぐってしまったが、どうにか気にしないようにする。


 ……未成年に手を出したら、アウトだもんな。


「そ、その……私達、これから同じ布団で暮らすわけじゃないですか……?」


「同じ布団では暮らさないな」


 デキてない。俺は決して娘さんとデキている訳じゃないんだ。


「だから、引越しの時にも気になる事も分からない事も……あると思うので……」


 そして、娘さんはおずおずとスマホの画面を取り出してきた。

 その画面には、L〇NEのQRコードが表示されている。


「なるほど……確かに、連絡先は交換しておいた方がいいな」


 引越し日とか、何処まで俺の荷物を置いていいかとか、色々と聞く機会があるかもしれない。

 そう考えれば、茨さんだけでなく娘さんとも交換しておいた方がいい。むしろ、娘さんと一緒に暮らすのに、交換しない方がおかしいのではないだろうか?


 だから俺はスマホを取り出して、そのQRコードを読み取った。

 読み取った後の俺の画面には、友達と思われる女の子とツーショットで映る天使の写真。それがアイコンとして映っていた。名前はひらがなで『ゆず』と表示されていた。


「ふふっ、橘さんって前まで坊主だったんですね」


「昔なー。そういえば、アイコンって自衛隊の時のままだったっけ?」


 今はすっかり面影のない髪型をしているが、これでも小中高野球部で、直ぐに自衛隊に入ったのだ────どちらかといえば、坊主の方が俺らしい。

 ……まぁ、今更必要のない情報だが。


「(……やった!)」


 何故か娘さんが背中を向けてガッツポーズをしている。

 今日の娘さんは、何処か様子がおかしいように見えるなぁ。


「よく分からんが……とにかく、これからよろしくな」


「はいっ! これからよろしくお願いします、橘さん!」


 その言葉と、嬉しそうな笑顔を受けて、俺は自転車に乗った。


 ……少しは、娘さんと仲良くできただろうか?

 未熟者の俺が、まさか高校生の女の子を預かる事になるとは思っわなかった。


(……なるようになる、か)


 そう思いながら、俺は娘さんに背中を向けてペダルを漕いだ。

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