冬 屋上の桜 8

 重い扉を開けると広がる空間。

 私が昇降口のあとに目指したのは体育館だった。オオカミ君、ミイラ先輩、その次に当然のように思い浮かんだのがあの見えない彼女だったからだ。


 ここに来る間、彼女も私が書いた不思議の一つなのだろうかと立ち止まり考えもした、けれどすぐに止めた。今更躊躇いを持ってそんなことを考えても無駄だと思ったのだ。ノートには空白がまだ一つ残っている。答えは彼女に会えれば分かる。それにオオカミ君の言葉が本当ならば、ミオはこの先に居るのだから。


 開けた扉から一歩、足元から視線を上げ目にしたのは、ワックスの良く掛かった照り返すような床と、そこに一つ転がるバスケットボール。

 そのボールが私の見ている前でふわりと人の頭の高さくらいまで浮かび上がり、そこからゴールに向かって飛んで行った。そしてリングに跳ね返されたボールは床で弾み最初の位置まで戻って来てぴたりと空中で止まった。まるで誰かが受け止めたみたいに。


「外してしまいました」


 ボールとほとんど同じ場所から声だけが聞こえた。もちろんボール以外には何もない。背景が見えるだけ。だけど彼女はそこにいる。


とおるさん」

「また会えましたね」


 彼女の声が響いた体育館に秋色の風が吹いた。




 用具倉庫から離れた正面、体育館のステージに私と透さん、二人並んで足をぷらつかせて座る。客観的に見たら私が一人で座っていてその横に不自然にバスケットボールが浮いているように見えるだろう。

 すると隣の彼女が唐突に。


「私いわゆるいじめられっ子だったんです」

「え」

「すみません。突然のカミングアウト困っちゃいますよね」

「そんな、大丈夫です」


 視線を落とせば見える気がする彼女の揺れる足。


「透明になる前から透明人間みたいな存在でした。そんな私がある日ですね、偶然いじめの現場を見てしまったんです。ちょうどこの間、さくらさんとミオさんと一緒に居た時のような状況でした。その時私、怖くて怖くて、何も出来なかった。それまで私は自分がそう言うことを見て見ぬふりをしてしまう人間だと思っていなかったんです。被害者の経験もあったからでしょうか。自分だけは違うつもりでした。だけどそんなことはなかった。私、その時心底自分に絶望しました。消えてしまえばいいのにって思いました」


 バスケットボールがくるりと回った。


「そしたら本当に消えちゃいまして、透明になってからはそれまでが嘘みたいに楽になりました。体が軽くなって、心が軽くなって、口まで軽くなりました。まあ話せる人本当に誰も居なくなっちゃったんですけどね」


 少し間を置いてボールがまた回転する。


「……と、そう言う設定でしたよね私、最初は」

「え……」


「ふふ、もう分かってるんじゃないですか? 私もさくらさんが創造したキャラクターだってこと」


「あ、そ、そんなこと……、いえ……、そう、ですね、はい、たぶん、うん、分かっていると思います」


 透さんの言う通りだった、彼女に会えた時、私はもう思い出していた。自分がノートに書いた彼女のことを。



『透さん』

 誰も居ない体育館に現れる、自称透明人間の女の子。

 透明なのでその姿を直接見た人は居ないが、動く甲冑、首だけゾンビ、低空飛行手首など、透明な彼女が遊び動かしているであろう様々な物の目撃証言はある。

 性格は明るく人懐っこくてお茶目。彼女はいつもチャンスがあれば人と話をしてみたいと思っている。特に同年代? の女子と。

 だからもしも少人数の女子だけで体育館に行くことがあれば、高確率で彼女に出会えるかも知れない。

 実は彼女は元々普通の人間で透明人間では無かったらしい。彼女が透明になってしまった理由は不明だが、本人はあまり気にしていない。

 おにぎりはバシッと王道梅干し派。



 透さんがこちらを向いて微笑む。見えないけれどそんな気がした。


「先ずはありがとうございます。私を生み出してくれて。あ、私たちと言った方が良いでしょうか。皆さくらさんに感謝しています、本当に」


「あ、いえ、その、ど、どういたしまして」


 正直どう言う態度でどんな顔をしていいか分からなかった。

 そんな私に彼女が続ける。


「だから皆、一番にあなたを助けたいと思ったんです。あなたが居るのに他の誰かのところになんか行きたくなかった」


 ほんの少し彼女の語調が強くなった気がした。私を責めているみたいに。


「……私、ごめんなさい、まだ、全部は、思い出せないけれど、私は、たぶん、皆に酷いことを、したんですね」


「んー、ま、いいですよ。過ぎてしまったことですし。それにこうしてお会い出来たんですから。私、さくらさんたちに見つけて貰った時嬉しかった。お喋り出来て本当に楽しかった、それに……」


 ボールを軽く投げ上げてキャッチする彼女。


「あの子が出来なかったこと、やってくれて、勇気を見せてくれて、ありがとうございました」


「あの子」


 先生も言っていた。


「はい、私たちはさくらさんが描いてくれたキャラクターであり、代弁者でもあります。今もまだ後悔を持ってさくらさんのことを見守っている人たちの。その人たちの代わりに一緒に夢を見ているんです」


「夢を……、それってどう言うこと? 今、これが夢って言うことなの? だからミオは居なくなってしまったの?」


「ん、そうですね、んー、まあ、焦らなくてももうすぐに分かりますよ」


「すぐにって、それに、後悔って、ねえ、見守っているって尾上おがみ君や帯包おびかね先生のことなの?」


「はい、そうです。そして私はあの子」


 彼女がまたボールを投げ上げた。今度はさっきよりも少し高く。

 そのボールは空中で形を変え、彼女の手に戻って来た時にはバドミントンのシャトルになっていた。

 彼女が差し出すそれを受け取った私は頭に浮かんだ名前を呟いた。


「あやちゃん」


「さくらさんは優しい人、彼女のことを気遣って私の設定も変えたんですよね。彼女の状況と私の設定が重なって見えてしまったから」


 私は……、そうだった、あやちゃんのあの悲しそうな顔が忘れられなくて。保健室の窓ガラスが割れてしまった時も、文化祭の準備のあの日、偶然目があってしまった用具倉庫に居た彼女の顔も。だから私はもっと彼女から離れたんだ。助けを求めちゃいけないと思ったから。彼女を苦しめちゃいけないと思ったから。


彩花あやかさんは何も出来なかったことをとても強く、深く、後悔しています。本当に自分を消してしまいたいと思うほどに」


「あやちゃんがそんなに、どうして」


「あくまでそれは結果ですけれど、難しいですよね、何もかも。あ、でも、先生が居て良かったです、今は彼女が彩花さんを支えてくれていますから」


「先生が」


「それでも、そうですね、出来れば、さくらさん自身が、はい、笑ってあげて欲しいなって思います。私は、やっぱりそう思ってしまいますね。すみません」


 それから透さんは「よいしょ」っと言ってステージを飛び降りた。影が床に落ちて軽い着地の音が響く。


「さて、私はこれくらいにして、これからのことですよさくらさん」


 揺らめく水の中のガラスのように一瞬彼女の姿が目に映る。

 振り向いた制服の彼女はあやちゃんの顔で笑って。


「この夢の終わりはもうすぐです、もう全てを思い出せるはず、全部の意味が分かるはず、あの日を思い出して、この日々を噛みしめて、そして終着点に向かってください。そこで彼女が待っていますから」


 彼女……、ミオのことだ。

 そうだ、混乱してばかりはいられない、私は行かなければいけないんだ。

 だけどここまで来て胸に指した不穏な気配に心臓が揺れる。

 でも、じゃあ、ミオは一体……。


「ねえ、ミオは」


「ミオさんは特別です。私たちとは少し違う、と言うか彼女のおかげで私たちはこうしていられるんですから。ま、あとは本人に直接聞いてくださいね」


 それから彼女は私の手にあったシャトルに触れて言った。


「さあ、行きましょう。私たちは信じています。また季節が巡ることを。桜咲く季節に出会えることを」


 すると手に掛かっていた僅かな力が消えシャトルが数枚の桜の花弁に変わった。

 花弁は秋の風にさらわれるようにして私の掌を離れ体育館の開け放たれた扉から外に飛んでいく。


「あ……」


 その視線を奪われた一瞬、透さんはもう気配を消していた。

 広い体育館の中、私は本当に一人になった。

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