春 3

 昼休みの食堂、油揚げを箸で持ち上げウットリとした表情を浮かべる彼女。蕎麦そば汁の滴る油揚げは控えめに湯気を上げながらツヤツヤと輝いている。彼女は堪らないと言った様子で生唾なまつばを飲み込んでから、大きく口を開けてそれにかぶり付いた。


 肉厚な油揚げを一噛みすれば沁み込んだ汁が溢れ出し、咀嚼そしゃくするほど口の中にめくるめく味の世界が広がる。

 それは私の想像だけれど、正面の彼女のとろけた表情が雄弁に語っていた。


 油揚げ、好きなのかな……。

 そこで気が付く。

 あ、そうか、狐だ、狐っぽいんだ。しかも子供の、小さいやつ。

 俯き上目がちに彼女を伺いつつ声には出さずそんなことを思いながら、自分の注文したA定食のアジフライを箸でつついた。なんだか迷惑そうにアジフライが揺れた。


 言い訳をする訳ではないが、私は別にアジフライが食べたかった訳ではない。どちらかと言えば食べたくなかった。普段からあまり食べないせいか昼に揚げ物は少し重いのだ。それに今日はお腹も空いていない。じゃあなんでA定食を注文してしまったのかと言えば、答えは簡単で、食堂に慣れていないから。


 この食堂ではまず券売機で食券を買うのだけれど、その券売機が生徒の数に対して絶対的に少ない。足りない。結果、行列。しかも昼休みの腹を空かせた生徒たちの行列だ。そんな行列を背中にゆっくりメニューを選んでいる余裕なんかない。少なくとも私にはそんな度胸はない。つまり券売機の前では、素早くメニュー全体を把握する能力と、瞬時に注文を決定する決断力が求められるのだ。しかし生憎あいにく私はどちらも持ち合わせていない。だから、結局メニューの一番最初、A定食のボタンを押した、と言うかそれ以外にできなかった。


「食べないの?」

「へ?」


 一向に箸の進まない私に目の前の彼女が不思議な顔をして尋ねる。

 私は変に気を使わせては悪いと思って慌てて首を横に振った。

 そして、とてもぎこちなかったと思うけれど、笑って、付け合わせのトマトを口に入れた。


 しかしなんだろうか。どうしてこんな緊張感を味わっているのだろうか。食堂は人も多くて賑わっていて騒がしいはずなのに、二人の周りだけ頑強な防音壁に遮られているみたいに張り詰めた静寂を感じてしまっている。もちろん原因は目の前の彼女。彼女は私とは違って相変わらず美味しそうに蕎麦をすすっているけれど。


 彼女に半ば強引に連れてこられた食堂。それなのに彼女は特に何か話をする訳でもなく普通に食事をしているばかり。一方私は沈黙が辛くて、さっきから余計なことばかり考えている。

 ど、どうしたらいいんだろう。こういう場面。私から何か言わなければいけないのかな。

 私はトマトを喉に押し込むように飲み込んで口を開いた。


「あ、あ、あの、えーと……」


 何か喋ろうとしてみたけれど上手くいかない。心の中の饒舌じょうぜつな自分は人見知りで、自分にしか上手に喋ってくれない。正直に言えば最近まともに学校で喋っていないから声の音量調節すら上手くできる自信がない。それがいきなり会話だなんてできるはずがない。しかも相手はほとんど初対面の女の子で名前すら知らない。名前、そうだ、名前だ。まずは名前を聞かないと。名前、あれ、名前ってどうやって聞くんだっけ。


 私が一人でモゾモゾしていると、落ち着かない様子を見かねたのか彼女から直球が飛んできた。


「さくら、私の名前覚えてないでしょ」

「ひぇっ」


 心臓がキュッとなった。汗が吹き出す。


「え、あ、いや、そんな、あの、その……」


 思わず否定しようとしてしまったけれど、箸を止めて真剣な表情を浮かべている彼女を前に、それはできなかった。それに図星だからどうしようもない。


「ごめん」


 すると意外にも彼女はニッコリ笑って言った。しかもそこに私を責めるような感じは少しもなかった。


浅香美桜あさかみおだよ」


 それが彼女の名前。


「浅香、さん」


 苗字にさん付け。


「ミオ」


 彼女はそれを許してくれないようで、今度はちょっぴり責められている感じがした。


「……ミオ、さん」


 恐る恐る呼んでみる。さん付けで。


「ミオ」


 さんは駄目みたいだ。


「……ミ、ミオ」


 彼女はやっと満足そうに笑って頷いた。


「それで、何? さくら何か言おうとしてなかった?」


 何? 何だっけ? 名前、は聞いたし、あ、でも、そ、そうだ……。


「あの、その、さくらって言うのは?」

「え? さくらこ、の方がいい?」


 キョトンと首を傾げる彼女。


「あ、いえ、大丈夫、です」


 学校では望月もちづきさんとしか呼ばれたことがないし家でも櫻子さくらこだから少し耳慣れないけれど。

 あと、そうだ、ついでに聞いてしまえ。今を逃したら二度と聞けない気がするし。


「私、その、覚えてないんだ。ミ、ミオと、その、知り合った時のこと」


 その言葉で彼女の表情が曇った。


「ひどい」


 しまったと思った。それはそうだ、こんなの失礼だし、それに言い方も直接的過ぎる。


「ご、ごめん」


 もう一度慌てて謝った。

 しかし彼女はすぐに明るく言う。


「ま、いいけどね。かもなって思ってたし」


 さっきから本当に良く表情が変わる。私はいっぱいいっぱいでとっくに置いてきぼりだ。

 さらに彼女が続ける。


「仕方ないから、寝ぼけさくらに教えてあげよう、私たち二人の馴れ初めを」

「な、馴れ初め……」

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