春 2

 水の中だと思ったのはうずくまる私の上で水面が揺らめいた気がしたから。他にそう思える理由はなくて、冷たくも温かくもなく息が苦しいわけでもない。ただ薄暗くて自分の手足すらハッキリ見えない。


 また水面が小さく揺れた気がした。

 見上げてみると柔らかい何かが落ちてきて波紋を立てていることに気が付いた。

 綺麗。

 ただ素直にそう思った。

 水面は夜の海みたいに暗いのに、そこに落ちてきているものは春の陽のように光っている。

 何枚も降ってきて水面を光に染めるそれはよく見ると花弁はなびらのように見えた。


「桜?」


 光がさざめいた。名前を呼ばれて手を振るみたいに。

 なんだか私は光に触れてみたくなって立ち上がって手を伸ばした。

 でも水面は遠くて届かない。

 ちょっとでも近付けばと背伸びをしてみた。

 すると不思議と体はふわりと浮かんで光に近付いて行く。


 近付く程に花弁の光が私に届いて、泥を洗うように闇を払い、私の体は色を取り戻す。闇の下から現れたのは見慣れた中学校の制服。

 そしてやっと触れられそうなところまで来た時、ふいに光が言った。知らない女の子の声で。


「さくら」


 それが私に向けられた言葉だと分かったのは、光が優しく呼び掛けるように揺れ輝いたからだ。

 少しためらってしまった、けれど、目の前の光に触れたい気持ちはどうしても大きく膨らんで、私、ついに光に触れた――。



 教室だった。いつもの良く知っている学校の教室。授業中のようでクラスメイトは席に着いていて黒板の前には先生がいる。皆時間が止まったみたいに同じ方向を見ている。そして私は視線を動かせば誰とも目が合う。つまり皆は私のことを見ている……。

 なんで、だろう。

 ここは学校の教室のはずなのに状況がまるで分からない。

 なんで?

 頭が全く具体的な行動を示してくれなくて、ぼんやりそのままでいる私。


「さくら……、さくら……!」


 後ろの席から囁き声が聞こえた。私のことを呼んでいるみたいだった。

 振り返ってみると女の子。パッと見た印象で、どことなく小動物を連想させる子だった。猫のような犬のような、その中間のような。クリっとした大きい瞳と控えめな唇。短い髪は金色に近い茶色で、彼女の印象と良く合っている。

 可愛い子だ……。

 思わず観察してしまった。


「さくら、座って……!」


 なぜか彼女は焦りと心配が混ざったような表情を浮かべている。

 いまだ何も分からない私。だけど単純な疑問が頭に浮かんでいた。だから聞いた。


「誰?」


 すると後ろの席の彼女は、信じられないと言った表情で一転大きな声で言った。


「ちょっと、さくら、寝ぼけてるの!?」


 その声をきっかけにクラスの止まっていた時間が動き出した。静かだった教室に笑いが巻き起こる。

 そこで突然自分の状況を理解した。


 どうやら私は授業中の教室で一人だけ立っている。たぶん、いや、確実に寝ていたのだ。そして、夢でも見ていたのか、何かの拍子に飛び起き立ち上がった。頭がぼんやりしていて夢の内容は思い出せないけれど、結果だけは今やハッキリと分かる。教室中の笑いの原因は私で、寝ぼけた私が笑われているのだ。


 一気に顔が熱くなった。顔が真っ赤に爆発したみたいだった。

 すぐさま私は席に納まり、なるべく目立たないように小さくなった。

 どうして居眠りなんてしてたんだろう。しかも授業中に寝ぼけるなんて。


 先生が何か言ったのか教室ではまた笑いが起こっている。

 その中にいるはずなのに音が良く聞こえなくて、私は遠く人混みに囲まれた円の中心で一人うずくまっているかのようだった。


「どんまい、どんまい」


 でもその円の中に躊躇ちゅうちょなく入って来て肩を叩く子が居た。

 さっきの後ろの席の女の子。

 彼女は相変わらず見覚えのない顔で楽しそうにコロコロと笑っていた。

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