春 オオカミ君 8

 その日、私は昼休みになるとほとんど反射的にカバンを持って席を立っていた。


 そのあとも染みついた行動が体を運んだようで、はたと気が付いた時には教室からだいぶ離れた場所まで来ていた。


 最近はいつもミオと一緒に昼休みを過ごしていたので、もしかしたら彼女が探しているかも知れない、そうも思ったけれど、ここまで来てしまうと引き返す気にはなれなかった。とりあえずミオにはあとで謝ることにして教室に戻ることは諦めた。


 私は落ち着ける場所を求めて校内を歩いた。なるべく人の少ない方へ、誰も居ない方へと向かう。結局辿り着いたのは外、校庭の隅にある小径のベンチだった。


 学校内なので生徒のために設置されているはずだけれど、美術の授業で使われているのを見たきりで、休み時間などに生徒に利用されているのは見たことがない。一人で過ごすにはちょうどいい少し寂しい場所だ。


 だけど、見上げれば桜。


 花の隙間から見える薄い空色を背景に正午の太陽に透かされて目の前いっぱいに煌めき咲いている。


 綺麗。


 木漏れ日が眩しくて視線を降ろすと膝の上でも光が揺れていた。

 私、気分が良くなってちょっと笑った。


 隣に置いたカバンからお弁当を出すついでに教科書を取り出す。国語の教科書。尾上おがみ君に貸した、失くしたと思っていた教科書だ。


 膝に乗せたお弁当の包の上でパラパラとめくる。やがて行き当たるページ。そこにはメモ紙が挟まれていた。


 そのメモ紙を手に取り眺める。

 余白の多いそれには、隅の方に小さな字で『ありがとう』と書いてあった。

 たぶん、ううん、きっと尾上君が私に向けて書いてくれたもの。


 じゃあ、教科書を貸してくれて、ありがとう……?


 でも、私はその意味を考える時、どうしてもオオカミ君のことを思い出してしまう。彼と出会ったあのあと、私は自分の机にこの教科書が入っているのを見つけたからだ。


 結局、あれからオオカミ君らしき人を見つけることは出来ていない。あの日出会った彼は一体なんだったのだろうか。今もそれは分からない。

 それに、まんまと不思議な体験をした私だったけれど、胸に残ったのはその体験に対する満足感ではなく、別の想いだった。


 オオカミ君は、尾上君なの?


 私が失くした教科書を見つけて届けてくれたの?


 確かに二人は似ている。

 病弱な感じで、ちょっと頼りなさそうで……、だけど、尾上君は私の前では明るくて、オオカミ君みたいに友達がいないなんて思えなくて、でも、私、保健室以外での尾上君のことを知らないから、本当は……。


 そうだったら、そうなんだとしたら、このありがとうは、友達になってくれて、ありがとう……?


 でも尾上君は転校してこの学校にはいないはずで、それにそもそもあの消えてしまったオオカミ君は……。


 答えの出ないまま宙に浮かぶ疑問は時間と共に桜色の風にさらわれて薄められていく。私はふと膝の上に置いたお弁当の重さを思い出した。

 そして視線をメモから外すと目の前にミオの笑顔。


「さーくーらー」


 突然心臓を鷲掴みにされた気がした。声にならない声が出た。


 ミオがしゃがんで大きな瞳でこちらを見上げている。名前を呼んだ以外何も言わない。怒っているのだろうか。やっぱり何も言わず教室を出て来てしまったのは良くなかっただろうか。怒られる? 責められる? と、とりあえず謝らないと。


「ご……」


 声を出そうとしたけれど、先にミオが口を開いていたようで言葉を遮られてそれ以上言えなかった。それに、聞こえて来たのは怒るとか責めるとか、そのどちらでもない一言だった。


「お昼一緒に食べようっ」


 木漏れ日の中で綺麗な髪色を揺らして笑う。

 私も拍子抜けしてしまって、返事と一緒に笑ってしまった。


「うん」


 それから二人で食べたお弁当は美味しくて、その時間が楽しくて、私、ほんの一瞬だけど、今ここに狼の被り物を取った尾上君もいて、桜の木の下のベンチで、三人でお昼休みを過ごしている、そんな幻を見た気がした。

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