春 5 桜桜

 目を覚ますと私は見知らぬベッドの上にいた。自分の体の状態は良く分からなかったけれど気持ちは妙に落ち着いていて、ここが病室であることもすぐに理解出来た。


 暖かい風がカーテンを揺らす。


 外を見たいと思った私は管の付いた重い体を起こそうとして自分が手を握りしめていることに気が付いた。

 鈍い動作で上体を起こし、それから拳をほどくと中には桜の花弁が一枚あった。


 どうしてだろうとぼんやり眺めていたがたちまち柔らかな風がそれをさらった。

 そのまま花弁は風に乗り開け放たれた窓の外へと舞うように飛んで行く。

 しばらく目で追いかけてみたがやがて花弁は眩しい光の中に溶けていって見えなくなってしまった。

 ふと気が付けば消えた花弁の向こうには新緑を輝かせた葉桜が一面に広がっていた。


 煌めく光に遠くなって行く微かな気配を感じ私は思う。


 ああ、そうか、夢を、見ていたんだ。きっと、幸せな夢を。


 だけどもうその夢を思い出すことは、出来なかった。






桜桜


 良く晴れた気持ちのいい休日の朝、彼からの電話で起こされた私は、もう一度寝る気にもなれず、簡単に身支度を整え、春の陽気に誘われたと言うことにしてそのまま散歩に出かけた。


 何か目的があった訳ではないが、優しい風が吹く穏やかな町並みは目的地もなくぶらつくにはちょうど良かった。背中のリュックも心なしか楽しげに揺れているようだ。


 私にはこんな春の日に無心で歩いていると自然と思い出してしまうことがある。

 それは簡単には人に言えない、だけど確かに自分の人生の転機になった過去のこと。


 結果的にだが、あの出来事は自分を孤独から救ってくれた。

 いや、それは正確では無い。

 本当はあの出来事がきっかけとなって自分は独りでは無かったのだと知ることが出来たのだ。


 救ってくれたのは紛れもなく皆の存在だった。

 病院に通い眠る私を見守り励ましてくれた。目を覚ました私に色々なことを話してくれた。退院してからも沢山の場面で支えられ助けてもらった。

 尾上おがみ君、帯包おびかね先生、彩花あやか、そんな大切な皆との関係は様々に形を変え今も続いている。




 歩く道の途中、ちょうど坂道と交差する場所で足に何かがぶつかった。見るとそれは小さくまとめた包帯だった。

 すぐに声が聞こえ、そちらを向くと学生らしき娘が走って来た。どうやら坂の途中で落としてしまったようだ。


 拾って渡すと彼女は大げさに頭を下げ、急いでいたのか、今度は私が歩いて来た方へと走って行ってしまった。


 遠ざかる学生服に懐かしさを覚えて少しの間その背を見ていたが、程なくして私もまた歩き出した。なんとなくだが彼女がやって来た坂の上を見たくなってそちらに足を向けてみた。




 それからちょうど坂を上り切ったところで私はまた歩みを止めた。辺り一帯を染めてしまうような満開に咲く桜が私を迎えてくれたからだ。


 風にそよぐ花音と揺らめき零れ落ちる陽の光。

 桜の木を見上げ、そして今年もまた想う。


 私は桜が好きだ。


 誰からも愛されるような美しい花。だからこれはありきたりな感情なのだろう。だけど私にはきっと他の人とは少し違う特別な想いがある。


 私はあの出来事のあと皆に確かに救われて来た。けれどそもそもあの出来事から私を救ってくれたのは桜の木だった。


 学校の屋上から飛び降りた私の体は風に煽られてぶつかった。まるで私に向かって手を伸ばすかのように伸びた桜の枝に。


 奇跡的な偶然だったけれど、私の体はそれで致命的な損傷から助かったのだ。だから私は桜に感謝にも似た特別な想いを抱いている、でも、この想いの理由はそれだけと言う訳ではない。


 その時、桜を見上げていた私の耳に女性の声が聞こえた気がした。


「あっちの桜も綺麗ですよ」


 それがまるで私に言っているみたいに聞こえて慌てて振り返って見たけれど近くに人の姿は無かった。

 変な空耳だと訝しんだが、道の先に桜の気配を感じて私はそちらに行ってみることにした。




 はぁ、と思わず感嘆の息を漏らした私の前には何処までも続いて行きそうな桜の並木道。あまり広くない道の両側におよそ等間隔で植わった桜がそれぞれに満開に花開き青空を埋め尽くすように咲き誇っている。

 その光景を前に心が満たされたような感覚を覚え自然と微笑んでしまう。


 そうだ、いつだってそうだった。

 私は想う。


 辛いことはあれからも何度だってあった。

 どうしてもあの頃を思い出してしまうこともあった。

 だけどその度私は桜に救われた。

 どうしようもなく気持ちが沈んでしまっても、私の心の一番深いところにはいつだって桜があった。

 美しい桜が。

 季節なんか関係ない、目を閉じて想えば不思議といつも桜が優しく微笑んでくれていた。

 だから私は今日までこうして自分を見失わずに生きて来られたんだ。




 桜のトンネルを歩いていると不意に目の前に花弁が一枚落ちて来た。

 私はそれを受け止めようと足を止める。


「おっと……」


 背中のリュックに付けていたぬいぐるみストラップが揺れる。

 胸の前、手の中に花弁を掴んだと思った瞬間、後ろからの衝撃で私は思わずつんのめった。


「わっ」

「あ、すみません!」


 背中に軽く体当たりをされたようで、振り返ると私より背の低い女の子が何度も頭を下げていた。

 高校一年生くらいだろうか。まだ真新しい制服を着ていて、何処か小動物のような可愛らしさがある。


「あの、えと……」


 彼女は私に何かを言おうとしているようで、緊張しているのか、時折その金色にも見える髪に触れながら上目遣いにこちらを見上げる。


「えっと、どうしたの?」


 私はそんな彼女を邪険に出来ず問いかける。


「それ」


 すると彼女が私のリュックのぬいぐるみを指差した。


「え、これ?」


 それは何時からか私のお気に入りになったキャラクター。

 彼女がその名前を言う。


桜餅子さくらもちこさん」

「え、知ってるの!?」


 思わず嬉しくなってしまった。だって今まで私以外に知ってる人に出会ったことが無かったから。


「はい! 私も大好きで!」


 彼女も笑顔になって、

 それから二人声が揃って、


「昔、ちょっとしたブームだった」


 ここは桜の木の下だ。こんな不思議な出会いもあるものだ。

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桜々の補習授業 てつひろ @nagatetsu

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