夏 ミイラ先輩 3

 炎天下の校庭を前に私は昇降口から出られなくなってしまって足を止めていた。

 目の前の使用者のいない夏のグラウンドは揺らめき立つような熱を放っていて、さらに、あちらこちらから聞こえる蝉の声がその熱に拍車をかけている。今年は蝉が少ないな、なんて言っていたのが今は嘘のようだ。


「無理だよ」


 影から一歩踏み出せばきっと私の体は焼かれてしまう。だけど家に帰るためにはこの暑さの中に踏み入っていかなければいけない。いつもよりも遠く感じる校門まで歩かなければいけない。


「なんでこんな日に学校に来てるんだろう」


 改めて一人でそんなことを愚痴ってみても結果は変わらない。

 そうだ、夏休み、結局私は補習授業のため学校に来ることになったのだ。理由は出席日数。言わずもがな思い当たるところがあり過ぎる。つまり自業自得以外の何物でもない。だから愚痴ったって本当にしょうがない。


「はあ」


 夏休み前は学校に来れないのが残念とかちょっと思っていたけれど、それは考えてみればミオがいることが前提で、今日みたいに一人で補習授業を受けに来るのなんか少しも楽しくなかった。


「はあ」


 とりあえず今日は終わったから早く帰りたい。なのに。


「はあ」


 止まらない溜息も普段より熱を持っている気がする。気持ちはこんなに冷めているのに。

 でもとにかくいつまでもここにいてもしょうがない。昇降口だって屋根がある分ましだけど暑いことには変わりはない。


 私はしゃがみ込んでしまいたい気持ちをグッと堪えて日影から強烈な光の世界へ向けて歩き出した。


 その直後、ちょうど外に出た瞬間だった。


「ぅわっ!?」


 衝撃と肌に当たる冷たい感触。

 突然の出来事、だけど何が起きたのか分からなかったのは一瞬だけですぐに理解した。

 水だ。なぜか水をかけられた。比喩的な意味ではなくて、文字通り水をかけられたのだ。

 制服の腹部を中心に全身が盛大に濡れてしまった。


 え? どうして? なんで?


 自分の今の状態は理解出来てもそこに至った理由が全く分からなくて疑問が頭に溢れる。けれどそれもすぐに分かる。

 水をかけてきた犯人の二人が謝罪してきたからだ。

 手にはそれぞれ空のバケツを持っている。要するにそれに入っていた水を私にかけたのだろう。大げさに頭を下げているが声は明らかに笑っていて、たぶん顔も笑っている。一番に伝わってくるのは反省なんかしていないということ。


 友達に悪戯をしようと思っていたとか、そいつと間違えたとか、また水入れて来なくちゃとか、何か言っている。


 私、頭に溢れていた疑問がどんどん嫌な気持ちになっていって目の前を塞ぐ。蝉の声も遠く、足も動かない。


 顔が見えない二人は、私が何も言わないことが分かったのか、じきに謝るのも辞めて「でも良かったね。暑いからすぐ乾くよ」と、最後にそう言ってヘラヘラしながらどこかへ行った。


 私はしばらく呆然と動けないままそこにいた。頭の中の嫌なモヤモヤが全身に広がってもう寒くすらあった。


 早く帰りたい。だけど濡れたまま帰るのも嫌だ。


 少しして私はジャージを置きっぱなしにしていたことを思い出してやっと教室に足を向けた。



 教室に着くと聞き慣れた声が私を迎えた。


「あれ? さくらだ、どしたの?」


 ミオだった。教室に他の生徒はいない、開け放たれた窓の傍に彼女だけが一人で立っている。


「ミオ、なんで?」

「私、今日補習で。実は赤点を取ってしまいまして」


 恥ずかしそうに、えへへ、と笑うミオ。

 彼女も補習だなんて全然知らなかった。そう言えば確かに他の教室でも授業をしていた。


「さくらは?」

「私も、補習」

「えー、なんだよー、二人して補習とか。どんだけ仲いいんだよ」


 その言葉がなんか照れくさくてちょっと笑えた。


「そうだね」


 その時ミオは私の状態に気が付いたようだ。表情を変え駆け寄って来て心配そうに言う。


「どうしたのさくら? 濡れてるよ」


 私はなんとなく言い淀んで言葉を濁した。嫌な気持ちが喉を詰まらせていたのかもしれない。


 とそこで気が付いた。

 なぜかミオから水が滴り落ちている。しかも良く見ると、いや、良く見なくても彼女は全身びしょ濡れだ。それは私どころではない。


「ど、どどどどうしたの!?」


 私、自分のことでいっぱいいっぱいだったのに一瞬で吹っ飛んでしまった。


「いやあ、事故?」


 聞けばミオは、彼女曰く不意の事故、で水を浴びてしまったらしい。ホースで水撒きをしていた用務員のおじさんと、二階から掃除の水を捨てた不届き者との二段コンボだったらしい。しかも最終的には自分でも自棄になって水道水をバシャバシャ浴びながら髪を洗ったのだとか。そのあと私と同じく着替えのために教室に戻って来たのだそうだ。


「着替えるのもめんどくさくなって黄昏れてたらさくらが来たって感じかな、あはは」


 彼女が変に明るくて笑うから、私、もうなし崩し的に釣られて笑ってしまった。

 なんなんだろう、この状況、二人、水を滴らせながらも結局笑ってる。


「何、やってるんだろう、私たち」

「ね、わざわざこんなことまでお揃いにする必要ないのにね」


 それから、置きっぱなしだったジャージに着替え、私も顔を洗い、濡れた制服を教室の窓枠に掛けて干した。


 私とミオは窓際の机に座りそれを見るともなしに眺める。


 向こうにはかんかんと音が鳴りそうなくらい真っ直ぐな日差しと、何も混ざっていないただ真っ青な空、それと白い白い雲。

 日陰の教室と窓枠に切り取られた眩しい夏の景色の間で時々思い出したみたいにカーテンが膨らむ。


 隣でミオがぽつりと呟いた。


「良かった」

「何?」

「さくらがいて良かったなぁって。一人だとちょっと落ち込んでたかも」

「そんなの私だって」

「ん、んふふ」


 含みのありそうな感じでミオが笑う。


「な、何?」

「仲良しだ」

「……そ、そうだよ」


 返事をしたけど照れくさくてミオの方、見れない。


「晴れてて良かった」


 ミオが言う。


「うん、良かった」


 私は頷く。


 私、その時ほとんど衝動的に机から降りて窓枠に向かった。無性に叫びたかった。


「暑くて良かったー!」


 私の声。響く。響く。


「わ、びっくりした。どしたの?」

「なんでもない! 暑くて良かったなって。服すぐ乾くし!」


 無理やり笑ってやった。ニカッて。


「そっか。さくらって時々びっくりすることするよね」

「え、そうかな、て言うかそれミオに言われたくないかも」

「そう?」


 私たちの髪先を揺らして教室を抜ける風、まだほんの少し残っていた嫌な気持ちをさらって行く。


 それから私たち、他愛のないことで笑ったり、制服が乾くまで教室で穏やかな夏の時間を過ごした。

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