夏 ミイラ先輩 7

 先輩は解けた包帯をもう片方の手で触れた。


「この包帯があればそれで良かったはずなのに、もうそうなったはずだったのに……」


 彼女は少し黙ったあと声の調子を変えて言う。


「ごめんなさいね、急にこんな話をして。あなた私を怖がらないものだから、嬉しくなって少し喋り過ぎてしまったわ」

「あ、いえ、そんな」


 私は喋り過ぎだなんて思っていない。それに、先輩を怖がるなんてそんなこと今は絶対にない。だってこんな夏の日に練習をしているくらい真面目な人だ。


 そうだ、先輩は今も真面目に練習を……。


「先輩、怪我はもう」

「ええ、もう随分前だもの、治っているわ」


 その時、私の影に隠れるようにしていたミオが声を上げた。


「だ、だったら!」


 私と先輩はミオの方に顔を向けた。

 ミオはあまり見たことのない真剣な表情をしている、まだちょっと萎縮している感じもする、もしかしたら彼女は先輩が少し苦手なのかも知れない。

 そんなミオが言葉を続ける。


「だったら、包帯、取ってください」


 突然の提案。


「ミオ……!」


 私は先輩がどんな顔をするか心配になって慌てて振り返った。だって今までの話を聞いていたらそんなこと簡単に言えない。


 先輩は、包帯をしているから本当は良く分からないけれど、表情を変えた様子もなく、特別何か行動で意思を示すこともなく、だけど、静かな声で言った。


「あなたは私の居場所を奪うの?」


 怖い。最初の驚き以外では初めて彼女に対してそう思った。嵐の前の静けさのような、これから起こる何かを予感させる怖さだった。


 私は焦って咄嗟に謝ろうと思った。

 だけどミオがそれよりも早く先輩に言う。今度は萎縮している様子は感じられなくて、むしろ先輩の怒りに、嵐に、立ち向かって行くような姿勢を感じた。


 ミオも、怒ってる?


「先輩はなんのために走っているんですか? どうして今も走っているんですか?」

「なんでそんなことをあなたに言わないといけないのかしら?」


 険しさが含まれた先輩の言葉にもミオは止まらない。


「なんで走ってたんですか? どうして走り始めたんですか?」

「どうして? ふん、分からないわ」

「分からないって、それは、包帯を取れば分かるんじゃないですか? 包帯を取って走ってみればそれだけで分かるんじゃないですか?」

「包帯を取れば分かる? 何を言ってるの?」

「何をって……」


 ミオの怒気が増した気がした。


「いつまでもそうやって誤魔化して躊躇って一人で納得して、隠してたって伝わらないし悲しませるだけ、あなたはそう言う立場にいたのに、いくらあとになって後悔しても遅いんだ! だから……」


 ミオの剣幕に先輩は何も言わなかった。

 私も。


「間に合うなら伝えるべき、です。……自分に、対しても。たったそれだけで、変わることもあるかも知れないんだから」


 自分の内側にある感情や言葉を、ミオも上手く口に出せないでいるのかも。だけど彼女の言いたいことは私にはなんとなく分かった。私も、先輩には包帯を取って欲しいと考えていたから。


「包帯は……」


 私はミオに続いて先輩に言った。


「包帯は先輩の居場所を作ってくれたのかも知れません。でも、それは先輩がいつまでもいるべき場所、でもないのかも、と思います。もし、もしも、先輩の中に今、躊躇いや迷いがあるのなら、もしかしたら今が新しい居場所を、いえ、本当の自分を見つけるべき時、なのかも、知れないです」


「本当の自分?」


 彼女の問いに私はさらに問いかける。


「先輩はどうやって優秀な選手になったんですか? 今も真面目に練習しているのはなんでですか? 先輩が好きなことってなんですか?」


「私が好きなこと……」


 それから先輩は少し黙って俯いたあと呟くように話し出した。


「可哀想な私。走っている私は可哀想。同情や慰めの声を聞き過ぎたのか、いつからか私自身もそう思うようになっていた。思えばそのせいなのかしら、走ることが楽しくなくなっていた」


「先輩、もし本当に怪我が治っているなら包帯を取ってください」


 私の声に先輩はまた黙って返事をしなかった。だけどさっき見せた怖い印象は彼女から消えていた。


 ミオも何も言わず私と先輩の会話の成り行きを見ている。


 私は続ける。


「包帯を取ったからって必ず何かが変わる訳じゃないかも……、でも、ミオの言う通り変わることがあるかも知れない」


 俯き自分の掌の包帯を見ていた先輩は、ふっと顔を上げグラウンドの方を向いた。


 雨は相変わらず降っている。だけど気付けばいつの間にかさっきよりも随分弱くなっていた。もうすぐ止むのかも知れない。


 先輩はしばらくその雨を見ていたけれど、徐に校庭に向け足を踏み出した。


 私とミオ、黙ってそれを見ている。


 先輩がどうするのかは分からない。例えこのまま先輩が何もせず消えてしまっても私たちは責めたりできない。

 包帯を取って欲しい。それは偶然出会った私たちが勝手に言い出したことだ。

 約束でも契約でもない、あくまでどうするかは先輩次第だ。


 私たちの視線の先、先輩は雨の中トラックに向かって行く。

 すると離れて行く先輩の足元に何かが落ちたのが見えた。


 包帯だった。


 先輩は包帯を解きながら歩いている。

 両腕の包帯、そのあと顔の包帯を外す。外したその下から黒髪が現れた。雨で濡れて、ぺったんこではあるけれど。


 先輩はトラックに着くと、ゆっくりと慣らすように走り始めた。遠目に見ても分かるくらい、しなやかで綺麗なフォームで。


 雨がさらに弱まり先輩が水たまりを蹴る音が耳に届くようになる。

 風を受け次第にリズミカルに先輩は走る。


 私たちはしばらくそのまま先輩の姿を見ていた。


 やがて先輩がトラックを一周する頃、雨は止み、雲間から幾本か陽の光が射した。

 光はスポットライトのように点々と校庭を照らし、その中の一つで先輩は足を止めた。


 彼女は髪をかき上げ空を見上げる。

 びしょ濡れで、残った解けかけの包帯はボロボロで、でも彼女のその様は美しく。


 雨上がりの夏の強い光は先輩に良く似合っている。


 眩しそうに、だけど確かに、先輩もその中で笑顔を浮かべていた。

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