冬 屋上の桜 7
昇降口を前に歩幅を緩め足を止めた私を、俯き歩く過去の私が追い抜いていく。
下駄箱、スノコ、コンクリート敷のたたき、空っぽの傘立て、開け放たれたガラス戸、夏の雨の壁。そして庇の下、一人うずくまる自分。
その背を撫で、雨粒と共に吹き込む風に記憶が蘇る。
ああ、そうか、あの夏休み、私は教室で濡れた制服を乾かして、一人で、先生にも会えなくて、それであんな風に……。
いつの間にか歩き出していた私の足元でスノコが乾いた音を立てる。
その音に一瞬意識を逸らしたあと視線を上げるとそこにあったのはもう私の幻影ではなかった。
黒髪と解けた包帯の白を風に揺らして凛々しく立つ後ろ姿。
「先輩……?」
途端に雨さえ塗り潰して夏が色を帯びる。その光景は見覚えのあるミオと居たあの日、雨上がりのあの時間。
「久しぶりね、元気だったかしら」
少しだけ顔をこちらに向け、だけど振り向かず不思議と良く届く声で話す彼女。
ミイラ先輩。
私は突然の夏の空気に戸惑いながらも彼女に尋ねた。
「先輩、これはどう言うことなんですか? 一体今はどう言う状況なんですか? 私は、それにミオは……、先輩も知っているんですか?」
彼女は私を落ち着かせるように一呼吸おいて優しく言う。
「大丈夫、これは決してあなたを傷付けるためのものじゃない。時間が必要だった、あなたが正しい自分の心で選ぶためには。今やっとその時が来たの。だけど最後に思い出さなければいけない、それと少しだけ知って欲しいことがあるだけ」
同じような内容を確かにさっきも聞かされた。
「それはオオカミ君も……」
「彼とも話したのよね、じゃあ私とも少し話さないかしら?」
「先輩も私に……?」
彼女はまた一呼吸置いて、
「そうね、でもそんなに身構えないで。出来なかったことを後悔しているのは本当だけれど、あなたに何かを求めるものじゃない。それに彼女は迷いながらもちゃんと今もあなたや、あの子のために教師たらんとしている。強い人」
彼女……? あの子……?
「解いた包帯は自分のためじゃなく誰かの傷を癒すためにも使えるのね」
そう言ったあと先輩は小さく微笑み、声のトーンを少し明るくして続けた。
「ねえ、あの時のこと本当に感謝しているわ」
「あの時……」
思い出すのは先輩と会ったあの日、包帯を取って欲しいとお願いしたあの時。
「あ、いえ、そんな、あの時は私、失礼なことを言ってしまってすみませんでした。先輩に対して酷いことを言ったんじゃないかって本当はあのあともずっと気がかりでした」
「いいの。あなたが、いえ、あなたたちが言っていたのは本当だから。結局私が逃げていただけなのだから」
「そんなことないです」
「むしろ感謝しているわ。おかげで大切な気持ちを思い出せたから」
「大切な気持ち?」
「私ね、走ることが好きなの。大好き。流れる景色、肌に当たる風、風を切る音、地面を蹴る感触。そういう気持ちも包帯で隠してしまっていた。ずっと分からなくなっていたの。だから思い出させてくれて本当にありがとう」
それから彼女は体をこちらに向け振り向いた。
夏の強い光を背に薄暗い影の中で見たその顔は、若くはあったけれど確かに知っている人の面影があった。
「……
口を突いて出たのは呼び慣れた名前。
「一人の先輩としてあなたに話したいこと、聞いて欲しいことが沢山ある。もう誤魔化したり躊躇ったりしない。こんな後悔は二度としたくないから」
「本当に先生、なんですか……?」
オオカミ君がそうだったように、先輩も……?
「彼女もあなたのことを大切に想っていた一人。そして後悔を抱いて今もあなたを見守っている一人。だから、どうか……」
オオカミ君の時と一緒だった。ミイラ先輩と先生は同じだけれど違う存在。
「なんで先生が、それに私を見守っているって先生が後悔ってどうして」
「いえ、ごめんなさい、いいのよ。全てはあなたが選ぶこと。私たちはただ信じて待っているわ。さあ」
彼女は私に向かって片手を差し出した。
「先生?」
「大丈夫」
雨上がりの校庭から吹く風は、聞こえ始めた蝉の声と共に熱を持って行く。肌にノートを持つ手にその感触を感じながら私は恐る恐ると歩を進め、やっと彼女と握手を交わした。
「私からも、ごめんなさい、それとありがとう」
その言葉を最後に彼女は目の前から陽炎のように消えてしまった。掌にほんの少しの余韻を残して。だけどそれは私に思い出させた。夏の教室で一人ノートに書いた手の感触を。
「先輩」
確かめなくても分かった。ノートの空白がまた一つ埋まったことが。
『ミイラ先輩』
日の暮れた放課後のグラウンド、居残りで練習をしている陸上部の生徒の前に現れる。一人でトラックを走っているといつの間にか前を走っている。格好はランニングパーカー、ショートパンツ、シューズ。フードを被っているので後ろからだと顔は分からないが体格からは女性のように見える。特徴的なのは包帯で一部分だけではなく肌の露出しているところ全てに巻かれている。それと走るフォーム。とても綺麗で見る人が見れば陸上経験者のそれだと分かるらしい。
その二つの特徴よりいつからかミイラ先輩と呼ばれるようになった彼女、噂では幽霊だと言われているけれど実際は何者か定かではない。ただ興味本位で彼女を追い抜き振り返った目撃者の話によると、その顔は目と口を除き包帯で覆われていて、驚き立ち止まった目撃者を睨み付け走り去り、音もなく闇の中に消えて行ったと言う。
夏の景色を前に鈍い私もやっと気が付いた。
いつの間にか私は不思議の中に居て、この不思議の中で私がノートに書いた不思議たちが私に何かを伝えようとしていると言うことに。
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