冬 屋上の桜 1

 階段を登っている、一歩一歩。足取りは普通に、だけど躊躇わず。荷物らしい荷物はなく、でも片手にはノートを持って。

 人の気配は遠く、校舎は静かで、自分が出す音に僅かばかりの緊張を覚えるも、心のほとんどを支配する諦めの感情が胸の高鳴りを押さえている。

 それでも、後ろ髪を引かれることはなく、前を向いた頬を染める高揚感すらあるのは、もう誰に拒まれることもなく、確実にこの冒険の終わりへと行けるから。そこに行けば本当に出会えるかも知れないなんて、幼いままの私がまだ何処かで信じて期待しているから。


 最後の踊り場に着く。

 ポケットの中で鳴った微かな金属音が耳に届いた。

 顔を上げると数歩先に屋上へと続くドア。この場所が薄暗いので窓が白く光って見える。


 一つ息を吐いて改めて足を踏み出した。

 歩きながらポケットの鍵を取り出し、今更去来する想いなどないので、淡々とドアの前へ行く。


 鍵を鍵穴に差し込む。たいして抵抗もなく簡単にドアは開錠する。

 そのままノブを回しゆっくりと押し開けた。


 ほとんど温度差はないが、前髪を揺らす空気に外気を感じ顔を上げる。


 そして目の前に広がる屋上の景色、その眩しさに、私、目を細めて――。




 もう一度目を開けるとミオの顔があった。


「あ、起きた」

「……へ?」


 背景は屋上、ではなく教室だった。


「あれ?」


 どうやら夢を見ていたようで頭が混乱している。現状が上手く把握できない。

 辺りを見回すとやっぱり教室で、私は机に突っ伏して寝ていたみたいで、目に映る季節はまだ寒い時期のそれで。


「冬? あれ、今、いつ?」


 そんな寝ぼけた私をミオは丸い瞳でしばらく見つめていたが、やがて小さく溜め息を吐いた。


「これは重症だな」

「重症?」


 依然ボーっとしている私にミオが言う。


「顔洗ってきなよ」

「え、あ、うん……」

「それからついでに鏡も見て来なよ」

「え?」

「凄いから」


 ミオはそう言うなりフイっと顔を逸らした。それから小刻みに震えて、何かを堪えている? そんな感じ。


「ミオ?」


 ……あれ、これ、もしかして笑ってる?


「じゃあ私はちょっと用事あるから、うん、あとでね、うん、とりあえず早く鏡見た方がいいかもよ、うん、それじゃ」


 そっぽ向いたまま席を立ってそそくさと離れて行ってしまうミオ。


「何?」


 ミオが行ったあと訳も分からずなんとなく窓の外を見る。

 ちょうどチラチラと空から舞い落ちて来るものがあった。


「雪だ」


 その時思い出す。


 そう言えば眠る前、ミオが私の髪をいじっていた気がする。あれはどうなったんだっけ。


 そのまま私、自分を映そうと窓ガラスに焦点を合わせた。

 外の景色がぼやけ、教室を背に私が私を見ている。


 そして一瞬あと、映った顔を認識した私、短い悲鳴を上げた。

 無数の小さな三つ編みの棘が頭に乱れ立っていたのだ。それはなんと言うか、ウニ。いや栗? ううん、やっぱりウニみたいだった。




 そんな髪の毛トゲトゲ事件があったのは、とてもとても寒い日、私が降り出しを目撃した通り天気が昼前から雪に変わった日。しかも雪は見る間に積もっていき、下校時刻には町を白く染めていた。


 ホームルームのあと私はすぐに席を立たずに、降る雪積もる外の景色を眺めていた。


 私は雪が好きだ。

 雪は境界線を白く曖昧にして日常の景色をまるで別世界のように変えてくれるから。そんな景色を見ると気持ちも高揚する。ただ単に滅多に雪が積もることのない町で生まれ育った人間の性かも知れないけれど。


 だけどそんな私の耳に聞こえて来たのは、気持ちとは反対に雪に対する不平不満だった。

 クラスメイトたちが口々に愚痴を零しながら教室を出て行く。


 私、それだけなのに視界が灰色に曇り頭には余計な考えが浮かぶ。


 確かに遠くから通っている人は大変だし部活動も中止になる。交通機関だって混乱する。そう言うのは別世界の話じゃなくて現実の話なんだし。

 現実を見ている皆と、それに比べて馬鹿みたいに浮かれていた私。学校だって休んでばっかりのくせに……。


 いつものネガティブが顔を出して急に高揚感が冷めていく。

 この年にもなって雪ではしゃいでしまう私はやっぱりおかしいのかな。


 その時。


「ねえ!」


 ミオが隣にピョコンと飛び込むようにやって来た。そして私とバッチリ目を合わせて言う。


「雪だね!」


 彼女の目がいつもと違って見えた。いや、違うと言うか、いつもよりも大分輝いている。なんて言うか、例えて言うなら、そう、映した景色をそのままスノードームにしました、みたいな感じに輝いている。


「雪だよ!」

「そ、そうだね」


 半ば冷めていたせいか、私は彼女の瞳の眩しさに気圧されていた。

 一応聞く。


「えと、ミオ、雪、好き?」

「うん!」


 これ以上ない程の全力の頷き。さらに彼女は大きな瞳で引き続き私を見つめる。キラッキラに輝いている瞳だ。


 段々私には見えて来た。


 ミオの頭に、全神経を集中させてこちらに向けている耳が。腰の辺りに、抑えきれなくて左右にブンブンと激しく揺さぶられている尻尾が。それでもってと言うかだからつまり、私の言葉を全身で待っている子狐が。


「あー……」


 ミオさん、プレッシャー凄いよ。なんだろう、起爆装置を押す直前の心境? そんな感じがしてるよ。


 私は間違えないように慎重に、だけど間違えようのないそれしかない言葉をあくまでさりげなく声に出した。


「外行こっか」

「行く!」


 笑顔爆発。瞳の輝きが一瞬で周囲に飛び散り私と彼女を包み込んだ。もうそれはスノードームと言うよりか、ドームをぶち破って雪原のダイヤモンドダスト。


「あ、あはは」


 彼女を前に、いつの間にか私、笑っちゃってた。


 不平不満を言う人もいれば、嬉しくて振り切れちゃう人もいる。状況も違えば経験してきたことも違う。色んな人がいて当たり前。


 ちょっとだけ頭にそんな正論が過ったりもしたが、そのまま通り過ぎて行って雪原の彼方へと飛んで行った。だって結局私には目の前の眩しすぎる笑顔が全てだったから。

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