夏 ミイラ先輩 6

 雨に打たれながらも颯爽と歩く彼女、スラリと背が高くてスタイルが良く、びしょ濡れでなければ、グルグル巻きでなければ、きっと格好いい。

 彼女は少し距離を置いて私たちと並ぶ形で昇降口のひさしの下に入った。行動をそのままに見れば雨宿りに来たのだろうと思えた。


「ねえ、さくら」

「うん」


 私たちは土砂降りの校庭を見たまま言葉を交わす。少し顔を寄せて、聞こえるギリギリくらいの小さな声で。


「あれって」

「うん」


 ミオの声に私は頷く。


「あの先輩、だよね」

「うん」


 それだけで十分。お互いに思い出していることは一緒だ。

 夏休み前のあの日、それと今日、私たちの話題の中心だったあの先輩。

 放課後のグラウンドで居残り練習をしている陸上部の生徒の前に現れると噂の。


 私はチラリと横目で彼女を窺い見た。


 彼女は濡れたフードを取って髪をかき上げている。髪以外はもちろん全部が包帯で覆われていて、今のこの状況は噂とは違うけれど、確かに聞いていた通りの格好だった。


 じゃあ、やっぱりそこにいる彼女はミイラ、先輩……?


 もしかしたら普通の、ただの陸上部の人と言う可能性はないだろうか。例えば、練習中に怪我をして包帯を巻いているだけとか。……うん、でも、それはさすがにちょっとあれか、巻き過ぎか。


 ミオが袖を引き、さっきよりも慎重な声で言った。


「ねえ、どうする?」

「ど、どうするって、ど、どうしようか……」


 今はオオカミ君の時と違い、別に彼女の正体を確かめに来たわけではない。正体が気にならないと言えば嘘になるけれど、だからと言ってこの状況からどうしたらいいのかも分からない。あまりに突然の遭遇。対策どころか心の準備も出来ていない。だから突撃する気概もない。


 と、唐突に私たち以外の声。大きな声と言う訳ではないけれど、雨の音にも負けない凛々しく良く通る声。


「困った雨ね」


 正直驚いた。じんわりかいていた汗が粒になって弾けたみたいな感じがした。

 顔を寄せ合い私たちがモジモジしているところにミイラ先輩が急に喋ったのだった。しかもたぶん私たちに向かって。


 咄嗟に返事が出来なくて私たち三人の間に一瞬出来る間。

 私、雨の音が大きくてもこう言う沈黙って辛く感じるものなんだと初めて知った。


「そそそそうですね」


 沈黙が長引く前にミオが返事をしてくれた。

 すると先輩がそれに答えるようにまた喋る。意図せず会話のキャッチボールになっている。


「こんな降り方じゃ練習も出来ないわ」


 その一言に私は自然と考える。


 練習。練習してたんだ。こんな雨の中で。あ、雨の前からか、それで途中で雨が降って来たのか。練習、練習か。


 思い浮かぶ春の日のこと。


 オオカミ君と同じだな。


 至った結論が変に私を落ち着かせた。

 もう一度彼女の方を見てみる。うん、びしょ濡れだ。足元では彼女が水源となって水たまりがどんどん広がっている。

 それを見て本当に思わず声を出していた。


「あの、ハンカチ貸しましょうか?」


 また間が開いた。ちなみに今度の間で一番驚いていたのはミオだったと思う。凄い顔でこちらを見ていた。

 一方ミイラ先輩、彼女は少ししたあと小さく笑った。たぶん。包帯で隠れていたけれど、私にはそんな気がした。


「大丈夫よ、ありがとう。それに私が使ったらハンカチが無駄になるわ」


 おお、確かに彼女の言う通りだ。焼け石に水、濡れミイラ先輩にハンカチ。なるほど。

 私は出そうとしていたハンカチを引っ込めた。

 そんな私にミオが小声で言う。


「さくらって、なんて言うか、本当に時々凄いよね」


 上手く理解出来なくて疑問符の付いた声が漏れたけど雨の音で掻き消された。ミオも別に返事が欲しそうでもなかったので私もそれ以上理由を聞き返したりはしなかった。


 手持ち無沙汰と言う訳ではないが、なんとなくもう一度雨を眺める。

 白く煙りながら依然強く降り続いている。私たちとミイラ先輩の奇妙な雨宿りも続く。


 だけど私、気付けば緊張は解けていて、午後のまどろみの時間のような心地良ささえ感じ始めていた。


 ぼんやりぼんやり考える。


 凄いって言ってたよね、私からしたらミオの方が凄いんだけどな。


 するとまた突然に先輩。


「私、陸上部だったの」


 そうだ、先輩も居るんだ。一人で呆けている場合ではない。

 しかもなんだか彼女は話がしたそうだった。

 だから私は普通に答える。


「そうなんですか。でも、だったってことは今は違うんですか?」


 ミオは隣で何も言わない。もしかしたらまだ警戒しているのかも知れない。


「そうね。OG。卒業したってところかな」

「じゃあ、やっぱり先輩なんですね」

「やっぱり?」

「あ、いえ、こちらの話と言うか……、そうかなと思っていたので」


 なんだろう、なんか上手く話せている気がする。この先輩、喋りやすい。

 一方、そんな私とは違ってミオはチラチラ窺い見るだけで何も言わない、私たちいつもと逆みたいだ。

 先輩が話を続ける。


「私、なかなか優秀な選手だったのよ。皆に期待されて、部のエースだったわ」

「はい、走るフォームがとっても綺麗なんだって聞きました」

「ふふ、そうね、一番気を付けていたところでもあるからそう言われると素直に嬉しいわ、ありがとう」


 先輩はびしょ濡れのままパーカーのポケットに手を突っ込み空を見上げた。スタイルがいいからかそれだけなのに画になる。びしょ濡れだけど。


「競技会があったの。大きな競技会。私も代表に選ばれたわ。練習して練習して、他の部員たちを蹴落として。そして代表に選ばれたあとはもっと練習した。だって責任があるじゃない。私のせいでその大会に出られなくなった部員もいるのだから」


 私は運動部では無いから実感を持って分かることは出来ない、でも、選ばれる人がいると言うことは、選ばれない人だっているんだと言うことは分かる。

 私は彼女に向かって小さく頷いた。


「だけどね、私、競技会の直前に怪我をしてしまったの。はっきり言って練習のしすぎね。オーバーワーク。とても後悔したわ」


 彼女に対して選ぶ言葉に少し迷う。


「……そうなんですか、それは、つらい、ですね」


 本当は簡単にそう言っていいのか分からない。だってそれは努力に裏切られてしまったと思うような出来事だから。本人にとってはきっともっと複雑なんだと思うから。

 だけど、それでも口に出来たのは何気なく喋る彼女とその声に、私の稚拙な言葉さえも受け止めてくれるんだとどこかで思えていたからだ。不思議な安心感が私の中にはあった。


「部員たちの前で謝ったわ。そしたら皆なんて言ったと思う? 包帯を巻いた私を見て、大丈夫? って言ったのよ。心配するばかりで一言も私のことを責める部員なんていなかった」


 先輩はポケットから手を出しそれを見つめた。少し包帯が解けて雨風に揺れる。


「その時、なんでか安心したの。とても。でも同時に大事な何かが無くなった気もした。それからも部活は続けたわ。私にとってはリハビリのようなものだったけれど。皆は相変わらず包帯を巻いた私を気遣い助けてくれたわ。だけど、ある時、包帯を巻いていて思ったの。もしこの包帯が無かったら皆は私を気遣ってくれるのだろうかって。そう考えた時に気付いたの。失くしたものに。それは居場所とプライド。優秀な選手という私のアイデンティティ。それに気が付いたとき、それまで漠然としていた感覚は喪失感として感じるようになったわ。それからね、私は包帯が外せなくなった。包帯が私の居場所を作ってくれていると分かったの。だってこの包帯が無かったら私は怪我人でもなければ、優秀な選手だった人でもないのだから」


 今度は何も言えなかった。だって先輩の話、それってミイラ先輩の正体そのもの。存在理由とかそういう話だったから。


 グルグル迷うように巻いた包帯も、解けて頼りなく揺れる包帯も、全部先輩みたいに思えた。


「でも、それでも、どうしようもなく心は彷徨ってしまうのね」

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