春 オオカミ君 5

 尾上おがみ君と初めて会ったのは保健室だ。今と同じくらいの季節だったと思う。例の如く体調を崩して保健室に行った時、先客として居た彼と一緒になったのだ。


 もちろん最初は気まずいだけで会話の一つも無かったのだけれど、不思議なもので、保健室で会うだけなのに、回数を重ねるうちに私は彼に妙な仲間意識を感じるようになっていた。そしてそれは、私の勘違いでなければ、彼も同じだったんじゃないかと思う。ただそれが友情と呼べるものかどうかまでは分からなかったけれど。


 尾上君は、心理的な影響で体調を崩していた私とは違い、人より少し体が弱くて、それが原因で保健室にお世話になっていた。私よりも背が低くて、細くて、頼りなさそうで、だけど話してみると意外と明るくて、気さくで、面白い男の子だった。


 特に印象に残っているのは、彼が転校する前、二人で最後に話した日のことだ。と言っても特別大げさな何かがあった訳ではない。私が彼に頼まれて教科書を貸した、それだけだ。


 じゃあなんで印象に残っているのかと言えば、一つは、たぶん初めて二人だけで話した時間だったから。

 それまでは、そもそも保健室で彼と二人だけになることはほとんど無く、たまに会話をする時も必ず保険の帯包おびかね先生がいて、彼女を交えて三人で話をしていた。


 でもその日は、先生が会議か何かで席を外して、思いがけず二人きりになった。


 私、最初は特に意識していなかった。


「あのさ、望月もちづきさん」


 でもそんな風にふいに話しかけられて、やっとその状況に気が付いて慌てて緊張した。


 三つあるベッドの内、私が保健室の真ん中寄り、一つ挟んで校庭側に尾上君が寝ていた。


「な、なに……?」


 ベッドの間の半開きになったカーテンに遮られてお互いの顔は見えない。


「今、カバンある?」

「え、あ、あるよ」


 登校してすぐ保健室に来た私はカバンと一緒だ。


「教科書、持ってる?」

「も、持ってるけど」

「なんの教科?」

「え、えと、国語と数学と……」

「国語の教科書、貸して欲しいんだけど、いいかな?」

「え……」

「今日、そんなに体調悪くないし、このあとの授業出ようと思ってるんだ。でも教科書忘れちゃってさ」

「い、いいけど」

「本当に。やった。じゃあ、あとで借りるね」

「う、うん」


 それだけの会話。


 そのあとは黙ってしまって特に何も言わなかった尾上君。程なくして寝息が聞こえて来た。

 私も体調が悪かったのでそれ以上余計なことは言わず横になっていたのだけれど、教科書のことが気になってなかなか寝付けなかった。

 結局、彼がいつでも持って行けるように、私は教科書を隣のベッドの上において、それから眠りに就いた。


 しばらくして目を覚ました時、教科書はそこになくて、尾上君の気配もなくなっていた。


 この出来事が印象に残っている理由はもう一つある。


 それはこの時の会話が本当に尾上君との最後の会話になったからだ。


 その頃から休みがちだった私は、尾上君に教科書を貸した日から数日間学校を欠席した。そして次に学校に来た時、彼は転校していた。

 私がそのことを知ったのは保健室で帯包先生から教科書を返して貰った時だった。先生は尾上君から教科書の返却を頼まれたのだそうだ。


 転校を知らされ、教科書を受け取って、特別何か思った訳ではない。でも彼が居なくなった喪失感を全く覚えなかったのかと言えば、たぶんそれは嘘になる。だけど、きっと友達未満のまま、私と尾上君の関係はそこで終わっている。



 沈む夕日と薄暗くなっていく校庭、頬に当たる風が冷たくて、黙っていると夕闇にサラサラと溶けていってしまいそうだった。


「……だから尾上君とは特に挨拶とかもなくて、それっきりなんだ。それに」

「それに?」

「あ、うん、教科書も、あれ、なんでだっけ、私、確か、失くしちゃって……」


 何かを思い出しそうになったけれど出て来なかった。

 ミオが私の顔を見て微笑んだ。


「そっか。私、尾上君ってさくらにとってもっと特別な存在なのかなって思ってた」

「特別?」

「そ、例えば、好きな人とか」

「え!? いや、全然、そんな……、尾上君とは本当に保健室だけの付き合いで、それ以外で会ったこともないし……」


 変なことを言われてなんだかちょっと焦った。


「ふふ、ごめん、でも尾上君とも私みたいに友達になれたら良かったのにね」

「え、あ、うん、それは、まあ……」


 尾上君と友達に……。

 明るい教室でミオと私と尾上君で笑い合っているイメージが頭に浮かんだ。


 だからなのか、ふと、教室のある本校舎の方に視線を送っていた。

 そして私は見た。そのシルエットを。


「え、うそ……」


 今居る場所からだと、校庭に面した本校舎の廊下が見える。私はそこに見慣れない影を目にしたのだ。


 人ではない、獣、耳が頭の上に立っていて、鼻先が前に突き出すように伸びていて、口が深く裂けていて、まるで、そう、狼のような。一瞬、でも、確かに、影を濃くした校舎の窓の一つに。


「オオカミ君……」

「え、さくら?」


 胸の高鳴りと共に、気付けば私は走り出していた。

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