第44話 約束?
ゆっくりと、エリーゼのベールが上へと上がっていく。それがとても恥ずかしくてたまらない。
だけど今日はどうしてか、恥ずかしい以上に、今のハインツの顔をちゃんと見ていたくて目を開けていることができた。
「! ……」
目があった瞬間、目を見開いて手をとめたハインツだったが、すぐに微笑んで再度動き出した。
そして後頭部へかけるようにして、ベールは脱がされ、エリーゼの顔はあらわになった。
「……」
その時の、ハインツの顔と言ったら! 赤くなって、ハインツの方が恥じらっているみたいに目を潤ませ、少し唇もあけて呆然とするようにじっとエリーゼを見てくるのだ。
もちろん、負けないくらいに赤くてみっともない顔を自分がしていることも自覚しているエリーゼだが、それでも、それ以上に目を開けていてよかったと思った。
初めてエリーゼの顔を見たから、こんなに劇的で可愛い反応をしてくれているのだ。それを見逃すなんてもったいない話はない。
それに、今勇気を出してよかったと心から思えた。きっと二人きりでない状態だと、ハインツはもっと意識して仮面をかぶってしまうだろうし、そうでなかったとして、ハインツのこんな表情はエリーゼだけが知っていてほしいから。
「ハインツ様……」
ハインツの名前を呼ぶ。何か言いたいことがあるわけでもない。この状況にいっぱいいっぱいで、感情が特定の形すらとってくれないくらいだ。
それでもただわかるのは、ハインツをもっと感じたい。ハインツをもっと求めている。それだけだ。その気持ちを少しでも叶えたくて、ほとんど無意識に名前を口にしていたのだ。
「エリーゼ……」
そんなエリーゼに対して、ハインツははっとしたように口元を引き締めてからゆっくりと呼び返した。すでに高鳴っていた心臓が、名前が呼ばれただけで噴火してしまったみたいになって、息さえ苦しくなる。
エリーゼがハインツの左手を両手で握る力を強めると、ハインツは右手をそっとエリーゼの左肩に置いた。
ハインツと距離が近くなった気さえする。ハインツの瞳。近くで見ると、いつも何気なく見ていた青い瞳が特別美しく感じて見入ってしまう。
「……」
息が荒くなってしまうのを何とか、はしたなくないよう抑えながらハインツと見つめあっていると、不意にその瞳の中に、エリーゼの姿が反射していることに気がついた。
自分自身と目が合う感覚。その自分の、なんて間の抜けた顔か。だけどこんな顔を、ハインツは熱心に見つめているのだ。
いまだ緊張やハインツへのときめきは高まるばかりだが、顔を見せていることへの羞恥心は和らいでいく。ハインツにだから余計に恥ずかしかった。
だけど、ハインツだからこそ、どんな顔も見せても大丈夫なのではないか。ハインツならどんなエリーゼだって嫌わないのだと確信できたから。
「……」
「……!?」
そして少しだけ気持ちが冷静に近づいたことで、改めて気が付いた。ハインツと顔がとても近い。いつの間にかハインツとエリーゼの顔は目と鼻の先の距離感になっていた。瞳ばかりが見えるはずだ。
そして今更になって、今からキスをするのだと言うことを理解した。
ハインツはそう宣言していたし、自分もそれを意識していた。だけど見つめあうことでもう何もかも忘れてただ目の前のハインツしか見えていなかったのですっかり忘れてしまっていた。
「あ、あの、ハインツ様っ」
「……どうした?」
じわじわ近づいてきていたハインツの顔がとまり、いぶかし気に尋ねてくる。動揺したのか、エリーゼの肩にある手にも力が込められた。
その声音はどこか攻撃的な、焦っているような、耐えているようなもので、エリーゼは何も言えなくなってしまう。
「ううん、なんでもない」
ハインツもエリーゼと同じように、今の状況にギリギリの精神状態なのだとしたら。これ以上に何かを言うのはかわいそうな気がしたし、なにより、やめて、と言うつもりはエリーゼもなかったのだ。
ただどうしようもなくて、名前を呼んでしまっただけで。
だからそう少しだけ震える声で否定して、エリーゼはそっと目を閉じた。
「……」
エリーゼの肩が痛いくらい掴まれて、一気に気配が近づいた。そして唇に温かいものが当てられる。ハインツの唇だ。
すでに高かった体温が、さらに上がってくるのを感じる。今なら手でアイロンだってかけられそうだ。耐えられなくてぎゅうぎゅうとハインツの右手を握り潰すくらいに握る。
「……。エリーゼ、やっと正面から、お前の顔を見たな」
ゆっくりと離れてそう、少しばかりからかうように声をかけられてエリーゼは目を開ける。少し赤くなっているし、いつも通りではない。
だけど今までよりずっと落ち着いたらしく、肩をつかまれているのも弱まり、置かれているだけになった。それにエリーゼも全身にたぎっていた力が抜け、ハインツの手を握るのをようやくやめた。
「こ、この間も見たでしょ?」
「一瞬だったしな」
「一瞬にしたのはハインツ様じゃない」
わざと反抗的な口調で、より気持ちをほぐしながら握ったハインツの手が痛かったかもしれないのでそっと撫でて誤魔化す。
「はは。くすぐってぇよ」
ハインツは笑ってエリーゼの肩の上にある手を上下させ、ぽんぽんと叩いてやめさせる。ぱっと手を離して少し俯く。冷静になるとまた少し恥ずかしくなってきた。
「も、もう、ベール戻すわね」
「おい待て待て」
両手でささっと頭上のベールをおろそうとしたのだが、ハインツが両手でそれぞれの手首をつかんでとめてきた。中途半端に眉毛だけ隠せたところで止まってしまった。力を入れるがハインツは余裕でその場で停止している。
く、悔しい。腕力で敵わないのはわかっていたが、こうも余裕綽々な差があるなんて。
「は、離して」
「せっかく何だから、もう少しくらい顔を見せろよ」
「嫌。練習には十分で、しょ! んぎぎ……もう! 痛い!」
何とか押したり引いたりしてハインツの手を振り切ろうとするも、表情一つ変えずにほんの少し動くだけだ。とはいえ抵抗の分だけハインツの腕の力が強くなるので普通に痛い。
「あ、悪い」
怒るとさすがに手を離してくれた。さっとベールをおろしてから、腕輪をつけていない右手の手袋を少しずらす。赤くなっている。痛いと思った通りだ。
「痛いわ」
「う。悪かったって。最初だし。一回は一回だもんな。ほら、座ってゆっくりするか」
「……うん」
なだめるようにすっと肩を抱かれ、回れ右させられて椅子に座るよう促された。抵抗したからハインツも向きになって力を入れたのはわかっているので、恨めし気に見る以上に責める気はない。大人しく言われるまま席に着いた。
「さて」
「ん?」
そしてハインツは自分の椅子をエリーゼの椅子に横からべた付けするように置いて座った。
「え、なに、近い」
「顔を見せろってんじゃないんだから、近いのはいいだろう? それとも、嫌か?」
「う……」
「い、嫌ではないけど。と言うか、その聞き方はずるいと言いますか……」
嫌なわけがないのに、わざわざ嫌か、なんて聞いて人の逃げ道を塞ぐのはどうかと思う。と別に逃げ道に逃げるつもりもないくせに心の中で文句を言いつつ睨むエリーゼには全く気付かず、ハインツはにぃっと明るく笑う。
「エリーゼ、この間の約束、覚えているか?」
「や、約束? ……ん? え、あの……え? ほんとになに?」
何だったかしらー、と気楽に思い出そうとして、約束ね、と念押しをしたことは何もなかったことに思い当たる。そしてそうは言ってなくてもなにがしかをしようね、と言っていたのだろう。と記憶をあさり、何も思い当たらなかった。
少なくともこの間、と言われる前回は特にない。ちゃんと奥さんをするつもり、と言うやり取りは約束とは言えないだろう。
しかし、約束を覚えているか? などと意味ありげな顔で言われて、絶対重要なものなのだろう。全く記憶にございません、と堂々と言うのははばかられた。
様子をうかがいながら尋ねるエリーゼに、ハインツは気を悪くするでもなく、むしろにやにやとしだした。
「言っただろ? ベールを、お前から脱がせてくれって言いたくなるようにしてやるって」
「……いやそれ約束? 勝手にハインツ様が言っただけじゃない。今真剣に考えた時間返してよ」
「お返しに、ちゃんとベールを脱がせてと言わせてやる」
「絶対言わないから」
真面目に考えて申し訳なくなったりした分腹立たしさすら感じたエリーゼは、うぜー。と素直に顔をしかめたが、ハインツは見えているのかいないのかますます顔を寄せてくるし、その状態でも笑っている。
「この距離まで来れば、それなりに見えるな」
「は、恥ずかしいから覗き見しないでよ」
息でベールが揺れそうな距離まで顔を寄せてきたハインツに、わかりやすく伝えるように睨む。間違いなく目が合った。だと言うのにハインツは嬉しそうな顔を崩さない。
「そう睨むなよ。だいたい、睨んでも可愛いだけだぞ」
「か、い、いつからハインツ様はそんなに軟派になったのよ。嘆かわしい。あの頼れる兄貴分だったハインツ様に戻して」
「俺はいつでも頼れるだろ? それに、軟派とか人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ。俺が言うのはお前だけだ。何もおかしなことはないだろうが」
「ぐぅ」
だからそう言うところが、と言いたい。でも実際以前は同性感覚だったのだからそんな風に言われたら気持ち悪いだけなのだし言わないのが当たり前だ。今は恋人なのだから、言ったとしておかしいわけではない。
でも恥ずかしいのだ。いきなりそんな甘いセリフを堂々とはいてくるなんて! 嫌ではない。嬉しい。だけどそれとこれとは別だ!
ハインツがせめて照れながら言ってくれたならともかく、なにを普通に言っているのか。なれるのが早すぎる。ちょっと前まで二人して赤くなっていたのに!
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