第37話 ハインツ視点 結婚しよう
エリック、の呼びかけに驚いたエリーゼだったが、すぐに笑って、間違っているわよ。などと言ったが、いやそんなわけがない。何故この状況で呼び間違えたと思えるのか。
無駄にポジティブすぎると言うか、鈍感すぎると言うべきか。
正直に気づいていたと言うと、エリーゼは泣き出してしまった。さすがに動転する。悩んでいるようだとは思ったが、少なくとも前回までは何一つ悩みがなさそうな能天気っぷりだったのに。そんな、泣くほどの悩みがエリーゼにあっただなんて。
「な、泣くほど悩んでたのか?」
「ち、違うわ。その、嬉しくて。ありがとう、ハインツ様。私、エリックのことでハインツ様を騙してるんだって、今更気が付いたから、言ったら嫌われちゃうと思って……」
確かに、騙されていたわけだし、今思い出すとエリーゼに出会ってからもノリノリで他人設定で会話していた。むしろ設定を煮詰めていた感さえあるので、きっとハインツを完璧に騙せていると思っていたのだろう。
途中まで気が付かなかったのが恥ずかしいくらいバレバレだったと言うのに。可愛い。
それにハインツに嫌われると思って、あんな悲しそうな声を出して、そうじゃないとわかって泣くほど喜ぶ? なんだそれは。ハインツのことを好きすぎだろう。
エリーゼはハインツを見上げている。その表情はうかがえなくて、今こそベールをめくってやりたい。見たことのないエリーゼを見たい。だけどさすがに、今それをやって怒らせてはいけないので我慢する。
本当に悩みはこれだけだったようで、エリーゼの声音は明るくなった。
よかった。よかった。とほっとすると同時に、それなら次の話題に移ってもいいだろう。婚約の話だ。絶対に今日すぐなんてできないのだから、了解を取るのは早い方がいい。
この流れで断られるのはあり得ない。
「あー、あと、な。さっき、婚約者でもないのに、みたいないちゃもんを付けられていただろう?」
正面から堂々と言えばいい。そうは思うが、口から出たのはそんな遠回りの言葉だった。
気まずい。絶対に断られない。半ば以上にそう確信している。だと言うのに、さらに断られにくいよう、言い訳からはいる。
そんなことを無意識にしてしまう自分が情けなく思えて頭をかいて隠す。しかし何を勘違いしたのか、エリーゼは再度謝罪してきた。
「ああいや、怒ったり注意してるわけじゃない。そうじゃなくて……婚約するか?」
「えっ!?」
唾を飲み込み、声がかすれないよう意識して発音した。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせたがエリーゼは驚きの声をあげたきりだ。
「まあ、お見合いした俺とお前が、今後も遊ぼうと思ったらそのくらいの大義名分があった方が楽だってことだ」
「こ、婚約!?」
顔をあわせられなくて上を見ながら、さらにそう言い訳を重ねる。本当ならもっと自信満々に言えるはずだった。だがエリーゼが驚くばかりで、喜んでいるのかどうかもわからなくて、確信していたはずの気持ちさえ揺らいでいく。
「わ、私と、結婚なんて本気で言ってるの? 私、全然淑女らしいところハインツ様に見せてないし、むしろ結婚相手としてありえないところしか見せてないと思うんだけど」
「あー、まあ、とりあえずだお前が嫌なら、後から破棄してもいいしな」
これは嫌がっているのだろうか。だとしても、とりあえず頷かせてしまえば、後から改めて惚れさせればいい。少々ずるいが、そう重ねて言うと、エリーゼは急に勢いを失くした。
「そうじゃなくて、ハインツ様は……」
エリーゼはハインツに向かって手をついて、そこまで言って言葉を切った。その声をきいて、ようやくハインツはわかった。エリーゼは嫌がっていたのではない。
ただハインツが本気かわからないから、戸惑っていたのだ。ここで誠意を見せられなければ男ではない。
さきほど弱腰になったハインツが悪い。照れも恥も関係ない。そんなのは、エリーゼを不安にさせることに比べたら些細なことだ。
エリーゼの手に左手を重ね、ハインツの熱量が伝わるように正面から顔を見つめ返す。
「俺は別に、お前と結婚してもいいと思っている」
「っ」
「お前はどうだ? お前と俺なら、結婚して、きっと毎日楽しいと思うぞ」
婚約がしたいのではない。結婚がしたいのだ。とりあえず婚約、と見せたのは一足飛びにできないがだけで、可能ならすぐにだって結婚したいくらいだ。
だけどさすがにそこまで言うと、エリーゼはまだそこまでの思いをもってくれていないだろうから、ハインツの気持ちの重さに引いてしまうだろう。だから結婚前提の婚約希望であることだけ間違いないように、慎重に言葉を選ぶ。
遊びの延長で、形だけ婚約したいわけではない。ちゃんと未来を見据えた本気である。それが伝わるよう、しっかりと逃げ出せないようエリーゼの手を押さえつける。
「わ、私も……ハインツ様と結婚しても、いいって、思ってるわ。ハインツ様ともっとたくさん、遊びたいしね」
「そ、そうか!」
例え恋愛感情ではなくても、受けてくれた! 結婚をしていいと、間違いなくそう言った!
胸の中に歓喜が沸き起こる。エリーゼの手を握りこむ。この、女性にしてはかたくて、男性にしては柔らかい。少なくとも手だけで貴族女性なのだととても判断できない手。
だけどそんな手が、とても愛おしい。
これから、もっともっと、エリーゼをハインツに惚れさせたい。
エリックだとかエリーゼだとかどうでもいい。目の前のこの人のすべてが愛おしい。
その告白から我に返って、お互い少し気まずいほど照れてしまったけれど、とにかく婚約する気持ちにお互い相違はないのだ。
エリーゼと別れてすぐにハインツは両親に話を通した。
○
それからハインツなりに、今までより熱心にエリーゼを恋に落とそうと考えてはいた。
しかし今まで通りを保ちながら関係を進めることのなんて難しいのか。
エリーゼが好きだと開き直ると、それより前から好きで十分可愛いと思っていたはずなのに、婚約者なのだと思うと妙に意識してしまう。ましてエリーゼ本人ももじもじしたりして、少し違うのだ。可愛いに決まっている。
婚約しようと決めてから最初のデートで、なんとかいつも通りの雰囲気に持って行けたはいいが、お茶の一つもいれられないのに全く気にせずにっこにこでハインツのお茶を喜んでくれるだけで、もう一生お茶をいれてやる。と言いたくなってしまう。
自分を落ち着かせたくて食事をとってから一度トイレに行って戻ると、わけのわからないことを言いながらまさかの手を握ってきた。
不自然この上ない。何の意図があるのか。エリーゼの反応を探ろうと、とりあえずとられた手を反射的に軽く握った。
「あっ」
と、そのとたん、エリーゼは声をあげた。
「は、ハインツ様っ、その、て、手……」
い、いやいやいや。その反応はおかしい。
おかしいだろ! と全力で脳内では突っ込んでいる。自分から触れてきたくせに、手を握りあうなんてエリックの時に何度もしたのに、なのにそんなに照れてしまうおかしなエリーゼの反応が、ハインツには可愛すぎてどう反応すればいいのかわからなくなってしまった。
結局その日も、エリーゼの意図も不明のまま、誤魔化すように以前の態度をなぞるような距離感を維持してしまった。
その後もエリーゼと会う機会はあったのだが、もはやエリックの状態ですら可愛くてエリーゼとの区別をつけるのが難しくなってきてしまう。
と言うか、エリーゼはすでにハインツに惚れているのでは? と言う感じだ。
今までと妙に違ったりしたり、変に触れてきたり、以前からエリーゼだと顔を見せるだけで恥ずかしいと言っていたが、それ以上にちょっとしたことで照れていたりした。
意識しているのではないか、と思ってしまうのも無理はないだろう。
いや、元々特別視されているのはわかっていたし、婚約も頷いてくれて結婚してもいいとは思っているのだ。すでに半分は落ちているのかも知れない。
だが結婚してもいい、と、結婚したい、には大きな差がある。
ハインツは最初こそ、エリーゼの為に恋をさせてやろうと思っていたが、今はもう違う。ハインツこそ、エリーゼを恋してしまったのだ。
それに気づいてしまった今は、エリーゼにもハインツと同じように思ってほしいと感じてしまっている。
そもそもこの、年齢にしては幼い、と言うか少年だったエリーゼに恋愛が理解できるのか。単に異性だと思って意識しているだけの可能性が高い。
今のところエリーゼがハインツをどう思っているのか不明だ。ハインツが本気で結婚しようとしているのか、とわざわざ確認してきたのだから、結婚を軽く考えているわけではないのだろう。
他の誰よりエリーゼに意識されていて、特別視されている唯一の異性である自信はある。
それがどの程度なのか。もうこの際、真正面から確認したいくらいだ。
ハインツはエリーゼが好きだと伝えたら、どんな顔をするのか。そしてどんな返事をしてくれるのか。
まだそこまでではない。時間が欲しい。そう言ったものならいい。
考えたことがない。あくまでお見合い相手としてはいいけど、恋愛感情ではない。それでもまあ、悪くはない。
だがどうだろう。それはあり得ない。お互いに恋愛度外視だから結婚してもいいと思ったのに。重い。引く。もしそんな返事だったら?
ここまで来て結婚はなくならないが、さすがに気まずいだろう。と言うかあの非常識の塊のエリーゼなのだ。婚約していても、それはハインツの為にならないから婚約やめよう、などと寝ぼけたことを言い出しかねない。
そうしてこじれると困るから、こうしてずっと遠回りな手段をとっているのだ。
ハインツからわかりやすく直球の言い方をするのはよくないだろう。あくまで自然に、エリーゼをハインツに惚れさせ、それを察してからハインツから改めて告白するのが理想だ。
そう思っていたが、しかししばらく努力してみたが、難しくないか?
ハインツはその後もよくよく考えてみたが、どう考えてもエリーゼが規格外すぎて結論の出ない日々を送るのだった。
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