第40話 ベールを脱がせないで

 ハインツの手を振りはらって自分でぎゅっと自分の手を握りながら、エリーゼはハインツから逃げるようにそのままベッドに背中から転がる。


「そ、そう言うのは結婚してから!」

「おい! だったら転がるんじゃねぇよ!」

「あわわわ」


 ハインツの怒鳴り声に近いほどの注意に、エリーゼは慌てて丸まってスカートの裾を翻さないようにしながらベッドの反対側に転がり、飛び出す勢いで着地して立ち上がる。


「あ、危ないところだった」

「危ないのはお前の脳みそだ! 今のもまあまあ駄目だからな?」

「え? 変なとこ見てないわよね!?」

「お、俺のせいみたいに言うな! 見てねーし」

「ふぅ……とにかく、ベッドから離れましょう。戻って。早く」

「チッ、偉そうに言うな」


 気恥ずかしさを誤魔化すようにお互い感じの悪い態度でにらみ合い、距離感を保ちながら元の席に戻る。そして机をはさんで席に着いた状態に戻ったので、いったん喉を潤して落ち着く。


「ふぅ」

「全く。とにかく、気を付けろよな」

「う。き、気を付けます。でも、そんなの……ハインツ様が今まで通りでいてくれたらいいだけなのに」


 確かに今のは少しうかつだったかもしれない。だけどそもそも、ついこの間までベッドで横並びで平気だったなら、ハインツがその時と同じように思ってくれればいいはずなのに。

 なんで急に理性がーなんて脅し文句が出てくるのか謎だ。とエリーゼは不満たらたらでつぶやく。


「今まで通りでいられるわけあるか。それならお前が今までと同じ距離感でいろよ。照れるのもなしな」

「そ、それはずるいでしょ」

「なにがだよ。とにかく、ベッドは禁止な。だいたい、他所ならともかく、普段お前が寝てるベッドが隣になるってだけでよくないのに」

「えー。普通に部屋には来たのに、後から文句言うのはよくないっていうか」

「入った時と今でも状況が違うって言ってんだよ」


 ハインツの言うことはエリーゼにとってはとても理不尽に感じられた。だが状況が変わったと言うのはわかる。同じ状況でも、立場鵜や状況が変われば気持ちも変わると言うのもわかる。

 なので唇を尖らせながらも、エリーゼはしぶしぶ頷くことにする。


「わ、わかりました。気を付けます」

「おう。そうしろ。……で、どうするんだ?」

「ん……練習はする。お願いします」

「ん? ああ。と言うか、練習って俺がするのか?」


 何をいまさら。そうじゃなかったら横並びになる必要も、ベッドに座ろうとして自爆する必要もなかったではないか。

 エリーゼはハインツにサラとしていた練習を詳しく説明した。自分ではめくれないほど恥ずかしいと言うと呆れていたが、確かに練習が必要だと真面目な顔になってくれた。


「だからその、ハインツ様に脱がしてもらう形で練習するのが手っ取り早いのよ」

「……わかった。じゃあこれでいいな?」


 納得してくれたハインツは席を立ち、テーブルを回って椅子を動かし、手が届く範囲で少し間を開けて椅子を並べて座った。サラの時と同じ横並びだ。座っているならこれが一番やりやすいのだ。

 立ってすると、多分エリーゼが我慢できずに逃げ出してしまうので無理だ。背もたれとひじ掛けがあって前が机で、逃げられないのが重要なのだ。


「お前は野生動物かよ……。まあいい。じゃあ、いくぞ?」

「う、うん……」


 ハインツが横からエリーゼの顔を覗き込む。エリーゼもそちらに体をななめにして顔を向ける。

 ハインツは怒っているみたいな眉を寄せて口をつぐんだ表情で、それはそれだけ緊張してくれているのがわかる。


 ハインツにとっては何でもないことのはずだ。見慣れた顔を見るだけなのだから。なのにこんな風になっているのは、有り難いような、逆につられてますます緊張するからやめてほしいような。


 ゆっくりとハインツの指先が近づいてくる。ベール越しに改めて見る指先はごつくて、右手の人差し指にさかむけが見えた。

 目の前にきた指先が下がって、顎下のベールの裾がつかまれる。その感覚が頭皮に伝わり、反射的に目を閉じる。

 これからハインツに顔を見せるのだ。ずっと隠していた顔。家の者以外で、サラにしか見せたことのないエリーゼの顔。


 どうしようもなく恥ずかしい。恥ずかしいと思うことがおかしいのだとどんなに言い聞かせても、恥ずかしくてたまらない。

 サラの時でさえ恥ずかしかったので、目を開けるのは不可能だろう。このまま早くすましてほしい。だと言うのに、ハインツが最初に掴んだ顎あたりからベールが上がらないのが気配でわかる。


「……は、早くして」

「お、おう」


 ゆっくりとベールが上がっていくのが、衣擦れでわかる。お互いの呼吸がうるさいくらいだけど、それより自分の心臓が信じられないくらい大きな音を立てていて、毎秒爆発しているようだ。


 明かりが瞼越しにさして、ついにベールが眼より上にいく。そのまま頭の上にひっくり返ってかけられるのが重さでわかる。

 今、ベールは脱がされた。ハインツに顔を見られている。目を開けないといけないのに、恥ずかしすぎて耳も首も真っ赤になっているのが自分でもわかってしまうから、見られているのが分かっていても、その見ているハインツを見て実感するのが怖くて開けられてない。


「……」

「……っ?」


 ハインツがかすかに近寄ってくる。顔が近づいてきているような気配。呼吸が近くなっている。

 エリーゼが眼もあけられないことを察して、さらにプレッシャーをかけようとしているのだろうか。だとしても、ますます恥ずかしい。

 でもいつまでもハインツを待たせるわけにもいかない。ハインツだって黙っているエリーゼに困っていることだろう。


 意を決して静かに息を吸ってから、歯を食いしばって目を開ける。


「、!? ん!?」


 目を開けた瞬間、思っていた以上に近くてハインツの瞼しか見えなくて、目を閉じている意味が分からなくて驚くのもつかの間。唇に何か、生暖かいものが当てられた。


「………ぃやあああああ!!!」

「どわっ」


 たっぷり三秒フリーズして、キスをされていると理解した瞬間、エリーゼは叫ぶ声をあげて思いっきりハインツを突き飛ばした。

 そのままの勢いで立ち上がったエリーゼは素早く自分が座っていた椅子の後ろに回り込み、椅子を盾にして転がっているハインツを睨み付ける。


「い、いってぇ。お前、いくらなんでも危ないだろ」

「ななななな!」

「お前何言ってんだよ」


 起き上がって床に手をついた状態で文句を言うハインツは、まだ驚愕が抜けずに言語が戻らないエリーゼに呆れたようにため息をついた。

 なにを偉そうにしてくれているのか! 立ち上がって椅子を直すハインツを睨み付けるエリーゼは、ふぅふぅと激しい呼吸をなんとか落ち着かせる。


「な、なにしてくれてんの!?」

「あー、まあ、つい、な」

「ついって何!? ついって!?」

「しょーがないだろ。目を閉じてるお前が可愛かったんだから」

「か、かわわ!?」


 頭をかいて誤魔化しながら、ハインツは堂々とエリーゼに対して対面する形で椅子を置いて、その前に座った。足まで組んで、まるで悪びれた様子がない。

 しかも可愛いとか! 嬉しいけど、そんな適当に褒めとけばいいや感あふれるセリフで誤魔化されたりはしない! とエリーゼは喜んでしまう心に活をいれてなんとか怒りを持続させる。


「だいたい、お前だって最初はそのつもりだったんだしいいんだろ? ベールを脱ぐ練習って、ここまで込みだっただろ?」

「そ、そうだけど」

「それとも、したら悪かったのかよ」

「わ、悪くないけど。悪くないけど駄目なの!」

「どういうことだよ」


 確かに最初はそのつもりだったけど、それはあくまでそれを言った時の話だ。その後は、顔を見るだけ、とハインツ自身が言ったのだ。なのにいきなりそんな、だまし討ちをするなんて。

 そんなのは反則だ。だいたい驚きすぎて全然唇の感触だって碌にわからなかったし、あんないきなりされて心の準備ができるはずもない。あれのどこが何の練習になると言うのだ。不意打ちされる練習なんて一生必要ない。


「ハインツ様だって顔見るだけって言ったくせに! もう馬鹿! 知らない! 最低!」

「お、落ち着けよ。悪かったって。まあ座れよ」

「ううううう。もう二度とベールに触らせないから!」


 椅子をがががっと窓枠に背もたれがぶつかるほど引き寄せる。ハインツとの距離は1メートル半。座った状態では絶対に手が届かない距離なのを確認してから座る。

 ハインツは足を組むのをやめて、膝に手をついて若干前かがみになる。その顔はさすがに頑ななエリーゼの態度に困ったようになっている。


「そういう訳にはいかないだろ? 練習は必要なんだから。これからは勝手にはしないから、そう怒るな。本当に悪かったと思ってるし、な?」

「練習なんかしない!」

「いや、こんな状態でどうやって式するんだよ。思ってたよりひどい結果だぞ」

「式でもとらない。もう一生ベール脱がないもん。だから練習しない」

「子供じゃないんだから。そういう訳にはいかないだろ? つーか、式しないとは言わないんだな」

「……それはする」


 結婚する以上、式をしない、と言うわけにはいかない。それはわかる。それがわかる冷静さを持ったうえで、ベール外さないはぎりぎり行ける気がするのでそうする。

 と言うか、人を怒らせておいて何をにやついているのか。ハインツのにやけ面に、エリーゼは余計にイライラしてきた。


「わかった。じゃあこうしよう、エリーゼ。俺は今後、こうして会うたびに、お前のベールを無理やり脱がせる」

「は?」


 え、この流れで何を言っているんだ? とエリーゼはいぶかし気に眉をしかめる。ベールがめくれたままなのでその表情が丸見えだ。

 その遠慮のない顔にハインツは笑いながら続ける。


「そんで阻止できなかったらキスするから。その代り、阻止できたらその日は一日諦める。それで決まりな」

「はああぁ!? 何を勝手なことを言ってるのよ!? 意味わからないんだけど!」

「勝手でもなんでも、無事に式を挙げるにはそれしかないからしかたねーだろ」

「笑ってるし! 仕方なくない! 絶対ベール脱がないから!」


 気安い態度で笑いながらされた提案に、そんなノリで受け入れられるわけがないので腕を振って却下する。そしてその動きで揺れた頭上に、ベールが頭の上にあることを思い出したエリーゼは慌てて直しベールを再度装着した。

 そんなエリーゼを見て声をあげて笑ったハインツは、にいっと笑ってから立ち上がって腰をまげ、エリーゼに近づいてくる。


「いーや、絶対脱がせてやるからな! おら!」

「無理だから!」


 言いながらのばされた手に、エリーゼも立ち上がって机を中心に横に回り込んで逃げる。

 エリーゼだってハインツのことは好きなのに、何なのだこの展開は、と思わないでもないのだけど、こんな勢いよく言われてうんと言えるはずがない!


「お願いだから、ベールを脱がせないで!」

「いいや! なんならお前から脱がせてくれって言うようにしてやるよ!」


 そうして続くかと思われた急きょ始まった鬼ごっこだが、さすがに大声で脱がす脱がさないでと叫んだのでドアの外で待機していた侍女が入ってきたことで終了した。



 その後、デートの度に隙をついてベールを脱がそうとするハインツと、そうはさせまいとするエリーゼの攻防が繰り返される。

 さらには一度阻止され諦めた後は、ベール越しに顔を寄せたり、いいムードにして自分から脱がしてキスをしたがるように仕向ける狡猾なハインツに、エリーゼは振り回されるのであった。


 そして結局、結婚をするまでに自分から脱がせてと言うことになるのだが、それはまた別のお話である。




 『ベールを脱がせないで』おしまい。


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