第33話 風に吹かれて

「なんかあったん?」


 ナイフとフォークをちゃかちゃか動かしながら味のよくわからない夕食を口に運んでいる最中、隣に座っていた兄貴がこそっと俺に耳打ちをしてきた。

 それに対して、俺は。


「平常運転。通常営業。……昔からのあるある体験」


 馬鹿正直に全部伝えられるわけがない。だからそうやってはぐらかし、ちらと周囲の様子を窺う。……皆が皆黙々と食事に取り掛かる姿はシュールそのもので、いつもの和やかさは欠片も感じられない。なにがあったか知らない摩也兄としては、この状況が意味不明なものに映っていることだろう。


「すっとぼけんのはお前の自由だけど、なんもなかったわけはねえよな。……ほら見ろよ、親父なんかさっさと晩飯切り上げたくてすげーペースで食い進めてる」

「早食いチャレンジできる歳じゃねえってのに……」

「あと、全体的にぎこちなさ過ぎな。よっぽどだろ、これ」


 脇を小突かれる。――確かに、お通夜にも似た雰囲気はただただ居たたまれない。しかしながら、各々の視点から見る今のシチュエーションには差異があって。

 たとえば親父。彼は自分の酒の席における失態が引き起こした厄介ごとの後処理と、後に訪れるだろう母さんからの叱責に怯えている様子だ。けれど俺は母さんにそのことを伝えていなくて、っていうか伝えられる状況じゃなくなってしまって、彼の怯えは杞憂となる公算が高い。

 たとえば母さん。彼女視点、明らかになったのは例のビデオからくる親どうしの約束ごとだけ。仕掛け人側に立っている自覚がある分、その裏で他の話が進んでいたなどと疑いもしないだろう。

 たとえば入江。彼女はもう、壊れつつある。今は亡き母からのビデオメッセージという感動の文脈の中で、突如として特大の爆弾を落とされた。感情をあちらこちらに振り回された結果として映像終了後からまともに機能しなくなり、話し合いの機会すら持てていない。

 たとえば文月。彼女に関しては、完全に空気を読んでいるだけ。己の預かりではないところでなにが起こったかなど露も知らない。けれども、周りの様子が明らかにおかしいことを察して空気に溶け込み、黙々と食事をしている。


 そして格別なのが俺。唯一ことの全体像を把握しており、そしてそれのヤバさマズさえげつなさに慄いている。どこから手をつければいいかに思考領域を圧迫されて味覚すらまともに働かず、正直泣きながら逃げ出したい思いでいっぱい。


 片や破棄する方法に思い当たりがない公式な書状、片や死人から託された激重感情。義と理、対極に位置する二つの概念から絶え間なく責め立てられている俺は、さながら大海に投げ出されたカナヅチ。あっぷあっぷともがくだけで精いっぱいなのに、生き残る術を探す余裕などあるはずもない。


「困ったときのお兄ちゃん頼みだ。ほれ、言ってみ」

「えー……」


 摩也兄は腕をするする俺の肩に回すと、そのまま小刻みにがたがた揺すって情報を引き出そうとしてくる。もちろん、俺は缶のコーンポタージュではないから、振動によってなにかをこぼすことはない。しかしながら兄貴も簡単に引く人じゃないのは承知していて、この場合はどうしたものかと明後日の方向に視線を向けた。


「兄貴の人生経験の中に、この問題の解決に役立つ知識あるか……?」

「おっ、言ったな。血ぃつながってようが戦争するときは容赦しねえぞ」

「別に煽ってるわけじゃねえけどさ、適材適所って言葉が存在する以上、兄貴にはここよりもっとふさわしい戦場があるわけで」

「理屈こねくり回して煙に巻こうとする弟とかすげーいやなんだが。え、まさかとは思うけど、お前俺のこと嫌い?」

「特別好きってほどでも……」

「ちっとはオブラートに包めや。ひでー奴もいたもんだぜ」


 振動が強くなる。情報が出ない代わりに、口からなにかが飛び出しそう。喉に力を込める意識でなんとか抑え込み、「行儀行儀」とマナーの面から大人しくさせる。


「親子喧嘩って感じでもねえだろ、ぱっと見」

「それだったら早々に俺が折れてる。長い間喧嘩する体力がない」

「そうなると、俺にはもう色恋方面とした思えねえわけよ。お前が役立たず扱いしてくるところからも含めてな。……まさかお前、全男児の夢を成し遂げたのか?」

「目的語を頼む」

「二股」

「詳細を頼む」

「そこの二人を美味しくつまみ食いして修羅場か?」

「ちげーわ。ってかあんたの願望を全男児の願望にするな」


 風評被害も甚だしい。変に主語を大きく取るな。関係各所に怒られろ。


「兄貴、恋愛観が変な方に歪んでるから彼女できないんじゃねえの?」

「よーし戦争!」

「兄貴対世界の戦いは分が悪いだろ」

「俺孤軍なん?」

「そりゃ孤立するよ。キモいし」

「いーや絶対についてきてくれる奴はいるね。……つか色恋なのはマジっぽいな」

「わかったところでアドバイスくれよ」

「昨今、三組に一組の夫婦が離婚してるって計算だ」

「怖い怖い怖い。怨嗟の根が深すぎて持ってる情報が怖い」

「熟年離婚もプチブーム」

「嫉妬の対象範囲が広すぎるんだよ」


 らちが明かなそうだ。ことこの話題において、兄貴が冷静さを保てるとは思えない。だからこそ、特定の質問に対する答えに価値があった。


「女性関連のいざこざで悩んでる奴のことをどう思う?」

「普通に死ね。その舞台に上れていることを神に感謝しろ」

「はっきりしてんなぁ……」


 会話しながらも一定のペースで食べ進めていた皿が空っぽになった。それをいいことに俺はごちそうさまと言って立ち上がり、食事処を後にする。兄貴との会話はぶつ切りだが、元来兄弟というものはこれくらい適当でいいのだ。


 俺はその足で階段をのぼると、庭を一望できるように作られたバルコニーに出た。日が沈んでいるせいで景色らしい景色は見えないが、目的は夕涼みだ。身を乗り出し夜風に吹かれ、過熱した頭を冷ます。実家に帰ってきたことで後悔しか生まれていない気がして、大きなため息を一つ。


「――ため息つくと幸せ逃げるって言うでしょ」


 その様子を、誰かに咎められた。……まあ、振り向かずとも声で誰かわかってしまっているんだけど。


 声の主はそのまま俺の横に並んで、風にはらはらと髪をなびかせた。


「実際逃げてんだよなぁ。いや、ため息つく前だからノーカンかもしれねえけど」

「……あっそ」


 入江も俺と同じように、夕飯を食べ終えてここにやってきたのだろう。昔から、ちょくちょく訪れていた場所だから。


「で、なに? ストーキング」

「なわけないでしょ。……ただ、ほら、わたしもちょっと落ち着いたから、話とか」

「……今ぁ?」


 せめてもうちょっと時間が経ってからがよかった。ゆっくり寝かせて、頃合いだと思ってから調理を始めたかった。……そんなことを言うと、死ぬまでそのときがやってこないのは明白なのだが。

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