第19話 厄日
「ええと、これはどういう……」
「俺が聞きてえよ……」
午後五時前。帰宅直後の文月から真っ先に投げかけられた言葉がそれだった。
「勝手に寝るわ起きねえわで散々だ……」
昼からずっと同じ姿勢。肩で入江の体重を支えたまま、低音量でワイドショーを観るくらいしかできなかった。当の病人さまは未だすやすやと無防備な寝顔を晒したままで、まるで起きる気配がない。文月は入江の顔を近くで覗きこんでから、「ぐっすり」と優しい声音で言った。
「相当疲れをためこんでたんじゃねえかな。慣れない環境、慣れない新生活で、そのうえ慣れない立ち回りまで強いられて。……頼れる委員長キャラとか、こいつと対極の存在なのに」
「……よく見ていらっしゃるんですね」
「こいつが爆発すると、俺らまで共倒れだからな。現にこうなってる」
頬をぺちぺち平手で叩くも、やはり眠ったまま。熟睡も熟睡で、身じろぎ一つすることがない。それだけストレスを感じていたんだと思うと、ここ二日の甘ったれムーブも納得できないでもなかった。
「しかし、どうして添い寝を?」
「改めて文字に起こすとひでー話だ……。昼前に起きてきて、飯食って、それからずっとこんな感じ。今日一日で芸能人の不倫問題に超詳しくなっちまった」
「そのご様子ですと、スマホはご覧になっていませんよね?」
「あ、悪い。ダイニングテーブルあたりにおきっぱだ。……なんか緊急連絡あったか?」
「一つお聞きしたいことがありましたので。とばり様が自宅の鍵を紛失された旨の連絡、もう済まされましたか?」
「いや、当人がこの調子じゃどうにもな」
「よかった」
文月はふぅ、と安心したように息を吐き出しながら、ブレザーのポケットをごそごそ漁って。
「もしやと思って職員室を尋ねてみたら、遺失物として届けられていまして」
「気が回り過ぎる……」
「帰りしなに確認したので、とばり様のお宅のものでまちがいないと思います」
「その視野の広さ、少しで良いからこいつに分けてやって欲しいくらいだ。栞さんじゃないが、爪の垢でも飲ませて」
文月が取り出したのは、ウチのものと似たデザインの鍵。昨日は体育があったから、大方その時間にでも落としたのだろう。考えたくはなかったが金持ちを狙った窃盗盗難の可能性も捨てきれなかったので、単なるうっかりだと判明して一安心。……言うほど安心できるか?
「……ほんと、人騒がせな奴で困る。休みの連絡入れる時が一番冷や冷やしたわ」
「どうされたか聞いても?」
「担任教師になれば自然と生徒の住所は知ることになるだろ? だから、笹原先生は俺とこいつがご近所さんなのをなんとなく察してるはずなんだ。それを暗黙の了解として、『入江が風邪で喉潰しちゃって、俺もそれをもらったみたいだから今日は休みます』って具合に」
「……それで?」
「なんか勘繰られてる感じはしたけど、普段の素行が優良だとこういうときに効くな。とりあえずは通った」
触らぬ神に祟りなしとも言う。家庭の事情にずけずけ突っ込める時代でもないので、先生も浮かんだ疑問を色々と飲みこんでくれたのだろう。特に俺たちの場合は、そのあたりがかなり特殊だし。
「そんなわけだ。まあ、どうしても必要になったら今度事情説明だな……」
「それでしたら私が」
「気持ちはありがたく受け取っとくけど、もっと話がこじれる予感しかない」
指をおとがいにあてがって、「確かに……」としみじみ呟く文月。さすがに彼女の籍は実家に残してあるので、そこらへんを詮索されると困るのだ。
とにかく、つつがなく片付きそうでよかった。今日限りでこいつを家に帰せるわけだし。
「……よろしければ代わりましょうか?」
首を捻って凝りをほぐしているのを見られた。さすがに数時間同じ体勢を貫き続けたのもあって、あちこち限界が来ているのは否定できない。だからその提案は勿怪の幸いであり、ありがたく飛びつくべき……なんだろうけど。
「助かるけど、遠慮しとく。……もうちょっと静かに寝かしといてやってくれ」
せめてもの情けだ。起きるまでは付き合ってやる。事態はさながらチェーンデスマッチの様相で、攻防は一進一退。俺の腰が逝くか、こいつが起きるかの勝負。
「……お優しい」
「誤評価。ただの憐れみだこんなのは」
「ですが……。……ですね」
なにか反論が浮かんだのだろうが、文月はそれを引っ込めてくれたらしい。俺も入江も、彼女には
迷惑をかけ通しで頭が上がらない。起きたらきちんと礼を言うように促さないと。
「あと、一個謝んないといけないことがあって。こいつ起こすのに部屋入ったとき、ついつい写真、見ちゃってな」
「…………!」
失念していたのか、文月の表情が一瞬揺れた。しかし、いつもの平静さを取り戻すのにそう長い時間はかからず。
「いえ、飾るからには誰かの目につく可能性が当然あるわけで。……ですから、葵さまが気に病まれるようなことでは」
そこまで言って、文月は「でも」と付け足した。
「……もしご気分を害されたようでしたら、こちらで処分しておきますので」
「いや、それはない。そんなことはさせられない。……ただ、な」
入江の隙だらけの笑顔と、文月の儚げな表情とを交互に見比べて。そして最後に、真っ暗なテレビ画面に映る自分の情けない顔を眺める。
「どうしようもなく、懐かしくなった。……おかしいよな、十年と経ってないのに、いまやこんなんだぜ?」
肩をすくめる。あの頃から本質的な部分はなにも変わっていないはずなのに、立場やスタンスはすっかり様変わりしてしまった。俺と入江は憎まれ口をまじえないと碌に会話もできない始末で、文月の丁寧すぎる口調にはどこか昔にはなかったよそよそしさがある。そんなうわべのしがらみなんて、以前は一切存在しなかったというのに。
「とばりって気軽に呼んでたのも、美愛って気安く呼んでたのも、今となっては遠い過去みたいな感じだ」
「…………」
いつぶりかのファーストネーム呼びに面食らったのか、文月は大きく俯いた。両手の指先を親指から小指まで対応させるようにくっつけて、なにか言いたげにもじもじしている。
「文月?」
「……わ、私は、今でもそれが望ましいと言いますか。あ、あお……あなたさえ、よろしければ、その」
「珍しく要領を得ないな」
「……いつでも、お呼びする用意はできていますので」
「…………?」
主語述語の関係性が希薄で、どの単語がどの文節を修飾しているか理解しがたい。普段はなんでも簡明簡潔に済ませてくれる彼女だが、今日に限ってはその例から漏れるようだ。
「…………あおくん、と」
「………………………………」
「き、着替えてきます!」
今度はこっちが面食らう番だった。久しい呼び名に、やはり過去の思い出が喚起される。今よりずっと小さくて、お転婆だった文月。そんな彼女は、俺のことをあおくんあおくんとあだ名で呼んだものだった。
でも、さすがに、高校生にもなって言われると。
「破壊力えっぐいな……」
いつもの洗練された動きはどこへやら、ぱたぱた騒がしく部屋へ向かう彼女の後ろ姿を眺めながら、手で目元を覆う。たかだか二日で色々起こり過ぎて、脳が焼き切れてしまいそうだ。
「あおい……」
「狙い澄ましたみてーに都合のいい寝言を言いやがって……」
むにゃむにゃ呟く入江。どんな夢を見ていたらそうなるんだよと額を指で弾き、脳裏に浮かび上がってくる例の写真の残像を必死に追い払いつつ。
「なんだよお前……。なんだよお前ら……」
越智葵。若干十五歳。人生初の厄日に、俺はただただ吹き晒されることしかできないのだった。
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