第20話 ありがと
どんなことが起ころうと、俺のモーニングルーティーンに大きな変化はない。いつものように起きていつものように散歩をし、ゆっくり朝食を摂ってから学校に向かう。ただこれだけの繰り返し。
腕時計をチェックしながら外に出て、施錠確認。身近にちょうどいい反面教師がいるので、鍵の収納場所をきっちりと脳内で反芻。なにごともつつがなく、さあ今日も登校だと方向転換した矢先。
「……おはよ」
「…………」
「だからなんで無視すんのよ!」
ウチのすぐ近く、壁に背中を預ける形で、見知った制服を着る見知った女が立っていた。
「眼科行くしかねえか……」
「見まちがいじゃないから。ほら、実体」
あわあわとした身振り手振りのあと、これでどうだと首元をぺしぺし叩かれた。なるほど幻覚ではないようで、確かな質量をそこに感じる。
入江とばりは、昨日の弱り切った姿がすっかり嘘のようにぴんぴんしていた。それこそ、憎たらしいくらいに。
「なに、寝坊?」
「……朝支度に手間取っただけよ」
「あっそ」
それだけ話して、すたすたエレベータの方へ向かう。普段通りならば、彼女が家を出る時刻は俺のそれよりも早い。二人とも、時間帯を被らせないように調節していた節さえある。朝っぱらから顔を合わせるなんて最悪で、ましてや一緒に登校するなど言語道断。その点については、俺たちの総意だと思っていたのに。
「まあ、元気になったならそれでよし。よかったねおめでとう。それじゃあここでさようなら」
「……さよならしようにも、通学路が一本道なんだからどうしようもないじゃん」
普通なら俺が一言二言告げた時点で解散しているはずが、今日に限って粘り強く横に並んでくる入江。走って振り切る択もあったが、さすがに通勤通学の時間帯だから人目が多い。悪目立ちしたくないので、不承不承に現状を飲みこむ。
「待ち伏せなんて、お前もなかなかシュミのいいことするようになったな」
「待ち……」
さすがに否定できないようだ。こいつは明らかに俺が出てくるのを待ち構えていた。そして、そんなことをするからには理由があってしかるべしで。
「用があるなら手短に。お前が近くにいると目立ってかなわん」
「あ、そう、お金……」
「やめろやめろやめろ。天下の往来で札を出すな!」
腹立たしいことに、このふわふわショートボブ女は顔が良い。容姿以外に致命的欠陥を抱えているのだが、そんなのはぱっと見じゃわからない。そこに女子高生という唯一無二にして絶対のブランドが付与されることによって、道行く老若男女が「へぇ……」と唸って振り返る程度には人目を引く。
そんな彼女が道端で、突如として金銭のやり取りを始める。こんなの、事件の匂いしかしない。
「それは今じゃなくていいんだよ。タイミング考えろバカ」
「でも、お金の貸し借りはあんまり気分が」
「気分はわかるが後にしろ。俺の懐はそこまで切羽詰まってねえ」
カツアゲとか援助交際とかパパ活とかお友達料金とか、多種多様な単語が頭の中を駆け巡る。本来なら俺が払う側なんだろうが、逆に入江が金を出しているという事実がかえって物事の土台をひっくり返していて厄介。誰に見られたものだかとはらはらしている俺は挙動不審のお手本で、それを理解しながらも強引に複数枚の日本銀行券を押し返した。
「ったく……」
どっと疲れが襲ってくる。閉じられた環境ならともかく、衆人環視のもとでこいつと関わりを持つと胃がいくつあっても足りない。やっぱ絶対一人ぐらいなんてさせるべきじゃなかったろと内心で彼女の親に悪態を垂れつつ、リュックサックを背負い直す。
「……お前、おじさんたちに風邪の話はしたのか?」
「…………まだ」
「今の間を鑑みるに、黙って押し通すつもりだろ」
「…………」
「やめとけ。お前が言わないなら俺が連絡するだけだ」
「それだけは待って」
切なる声で懇願を受ける。自分の能力不足が知られるのがよほど恐ろしいのか、入江は俺のブレザーを引っ張りながら言った。
「今日からもっと頑張るから。ミスしないように、上手く……」
「……はぁ」
勉強ができることと頭の良さとは別個のものなんだと、こいつを見るたび痛感させられる。入江の導く結論はいつも本質からズレていて、いつも見ていてもどかしい。
本来、それを指摘してやるような義理は俺にない。いつまでたっても気づけないことだからこそ、自分自身で理解しなければならないのだと思う。過剰に差し伸べられる救いの手は、いつしか当人から成長の芽を摘み取ってしまうだけだ。
それでも、見ていられないなあと感じるタイミングは訪れるわけで。
「なんつーか、お前ほんっと生きるの下手くそだよな。人間やるのが下手くそって言ってもいい」
「なにその暴言」
「言ったまんまだ。恵まれた環境に恵まれた能力で生まれて、どうしてこんな気質に成長すんだかさっぱありわかんねえ」
資金面は言わずもがな、容姿も頭脳も持っていて、カタログスペックでは向かうところ敵なし。なのに知れば知るほどポンコツな面ばかりが露呈していくのはなぜだ。
「……そういうのに胡坐をかいてたら、すぐダメになっちゃうでしょ」
「精神ばっかり無駄に高潔なんだよなぁ」
「無駄ってなによ!」
「無駄は無駄だろ。お前は背中で語れるタイプじゃねえのに」
「はぁ?!」
「じゃあ聞くけど、なんで今回体調崩したか理解してるか?」
「それは……自己管理が不十分だったからで」
「ほれ見ろ、なんもわかってねえ」
入江はそもそも、自分を律するのが不得意なタイプじゃない。勉強だろうが習いごとだろうが、始めたことは一定のレベルまできっちり仕上げてきた。注意力の散漫さからところどころでポカもするが、それは愛嬌で片付く。
じゃあ、なんでこうもダメダメなのか、その答えはこれに尽きる。
「お前の人生にはメリハリがないんだよ。いつでもどこでも気を張ったまま、緩まないよう必死になってる。元からそういう性格の奴だったらまだしも、意図的に作ったらボロが出るに決まってんだろ」
「なっ……」
「ほら、図星」
生まれながらに跡目最有力としての期待を背負っていて、その声に応えるよう、歳を重ねるごとにこいつからは余裕がなくなっていったように思う。たかだか十代半ばのガキが抱えきれる重圧なわけがないのに、馬鹿正直に全て正面から受け止めて。その過程でどこかおかしくなってしまったまま、当人だけがその事実に気付かない。
求められるふるまいを精一杯の力で出力する。ただ、残念ながら人の体はそんなことを継続できるように設計されてはいない。
「分不相応な生きざまのツケだ。お前はどうやったって一人でなんでもできるほど万能じゃないんだから、いい加減に人の使い方を覚えろ」
「使い方って」
「じゃあ言い方を変える」
つっけんどんな物言いばかりになって、コミュニケーションが機能不全に陥りかける。これは俺の悪い癖で、特にこいつ相手だとそれが顕著に表れてしまう。だが、入江とばりに言葉の裏を完全に読み取る能力などないのだ。だから、言いたいことがあるのだったらもっとシンプルに、わかりやすく。
「『助けて』ってちゃんと言えるようになれ。誰かに頼っても、バチなんかあたんねえよ」
「…………」
渾身のお節介。本来なら彼女が自分で気づいて改めるべきだったこと。……ただ、どうせ一人じゃ死ぬまでわからなかっただろうから、俺が仕方なく背中を蹴っ飛ばす。……ほんと、そんな義理なんて、どこにもないっていうのに。
「学校近いからさすがに離れるぞ」
歩幅を広げる。距離を取る。与えられた気づきをどう料理するかは彼女次第で、もう俺が手を出せる領域ではなくなった。俺たちはどこまでいっても他人に過ぎず、そのくせ進む先で否応なく道が交わる厄介な間柄。願わくばこれ以上手を焼かせてくれるなと願いつつ、音楽プレイヤーに接続されたイヤホンを装着しようとして。
「ねえ」
仕方なく振り向く。学校はすぐそばで、周囲には同じ制服を着た学生の姿も散見される。
その中で、彼女は。
「……ありがと」
「どーいたしまして」
目を逸らしながら投げかけられた感謝の言葉に、こちらも肩をすくめながら答える。……昔から、礼だけはちゃんと言えるんだよななんて思いながら。
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