第21話 誤魔化しは一度まで

 一日休んだ程度で授業に置いて行かれるということはなかった。もともと先行型の特殊カリキュラムで中学までやってきたのもあって、おそらく向こう一年の授業内容は復習作業になる。わかっていることの繰り返しはどうしても退屈になってしまいがちで、俺は教科書のコラムページなんかを読みながら暇つぶしをすることが多い。

 一方、俺と同様の立場である他の連中はどうか。比較的後ろの座席を割り当てられていることを悪用して、二人の様子を盗み見る。

 

 背筋に針金が通っているんじゃないかと錯覚するようなしゃんと伸びた姿勢で授業を受ける文月は、シャープペンシルを唇の近くに構えながら時折思いついたようにノートになにかを書き留めている。相変わらずなにをしても絵になる奴で、もっと広く教室を俯瞰すると、授業そっちのけで彼女の横顔に見とれている生徒が男女を問わずに複数名いた。教師泣かせだなぁと思いつつ、気持ちはわかるので頭ごなしに否定もできない。いつ役に立つかわからない学業より、即物的な目の保養に走る方がよほど人間らしい。

 席替えでもしようものなら彼女の座席の隣接位置をめぐった争奪戦が起こるのは必定。金銭が絡まなければいいなぁと、他人事のように考える。


 それで言えば、この教室内での大まかな視線方向は三つに大別される。真剣に授業を受けている連中が見ている黒板と、前述の文月。そして――


「そういえば入江さん、体調の方は大丈夫?」

「はい。一日休んですっかり」


 教師が授業の流れを一時的に遮り、個人に話を振った。いきなりのことだったが入江に動揺した素振りはなく、真剣に話を聞いていたことが窺える。

 彼女はかなり意識的に優等生としてのふるまいを心がけている養殖品。されど現実として残している実績は申し分なく、教師からの信用も厚い。あいつに頼れば授業は滞りなく進むし、かなりありがたがられている感じがする。そんな生徒が一日欠席したのだから、教員側としてはちょっとした事件だ。

 それに、クラスメイトにとっても捨て置けない出来事だったのはまちがいない。文月よろしく、あいつの姿をちらちら窺っている生徒は多く、それは今さっきのやり取りで大きく顕在化したように思う。教師からの名指しを受けて注目を浴びることで当然視線の動きが起こるわけだが、その中で微動だにしなかった奴が何人か見受けられた。それ即ち、元からあいつのことを見ていたという証明。当事者の名誉を慮って、誰がそうしていたかは即座に忘れることとするが。


「ついでにって言ったら悪いんだけど、教科書の読み上げお願いしてもいい?」

「はい」


 すらすらと評論文を音読していく入江。昨日は声にどこかノイズが混じっている感じだったから、すっかり治ったという当人の言い分に虚偽はなさそうだ。国語の成績の良さを理由に俺が指名される機会もちょくちょくあるのだが、野郎の声に需要はないからできればずっとあいつ頼みでいたい。

 

 とにかく、二人の授業態度は真面目そのもの。見習いたいものだとペンをくるくる回しながら、授業終わりまでの時間を逆算した。

 


********************


「入江さん入江さん、さっきの授業のここなんだけど……」

「ああ、それなら――」


 やはり、見慣れた光景だった。授業の終了に合わせて女子生徒が何人か入江の机に向かい、恒例の質問責めが始まる。俺はそれを横目に見ながら、コーヒーでも買ってくるかと教室を後にしようとして。


「――わたしよりもっと詳しい人がいるの」


 思わず、足が止まる。予想と異なる返答に、体の方が反応してしまった。まだ熱が引いていないという疑いが湧き出て、わざとらしくならないように振り返る。もっとも、この状況であいつがヘルプを求められるのは文月くらいしか――


「…………」


 目が合った。そんなまさかとは思うが、確実に視線が交差した。どうやら止まるのは悪手だったらしいと省みて、慌てて目を逸らす。――だが、時すでに遅し。


「あお……越智はわたしより、国語得意だから」

 

 明らかに『葵』と呼び捨てしかけたのを「ああ……越智」みたいに軌道修正した気配があった。当人は珍しくアドリブが成功して胸を撫でおろしているが、それはそれで問題の焦点がズレている。


「呼び捨て……?」

「…………!」


 慌てて口許を手で覆う入江。こういうところでまったく予想を裏切ってこないその姿に安心感すら覚えるが、これはかなりのピンチ。それも、あいつではなく俺の。もしも裏でつながりがあるとバレようものなら、俺の高校生活は今日限りでポシャる。それは御免被りたい話だった。


「二人って仲良いの?」

「あ、それは……」

「癖だろ? 立場柄、越智って名前の知り合いそこそこいそうだし」


 レールは敷いてやったから、恥を捨てて乗ってこい。俺が振り絞って出力した精一杯の機転を無駄にしてくれるな。あくまで俺は越智姓の一般人だというスタンスで押し通ってやる。

 本当だったら疑いの芽すら生みたくないところを、特別出血大サービスで出した助け舟。俺の必死さが多少は伝わったのか「そ、そうなの! ごめんね越智くん」と胸の前で合掌する入江。


「へぇ……」


 女子数名から、明らかに怪しんでいる雰囲気を感じる。さすがに無理筋だったかと頬が引きつるが、俺にできるのは堂々と立っていることだけ。

 さあどう転ぶかと心して、続く言葉を追いかける。


「入江さん直々の指名ってことは、越智くんも勉強できる系?」

「それなりじゃねえかな」


 疑念の払拭が叶ったとは思えないが、ひとまずの追及は逃れた。こいつには後できつくお灸をすえるとして、今すべきは。


「自分の教科書持ってくるのめんどいからちょい貸して。……で、どこ?」


 俺がすんなり応じたことに一番驚いていたのは入江だった。この手の労力消費を好まないのは長い付き合いでバレているから、意外だったのだろう。

 もちろん、こちらとしても思うことは色々ある。ここで断ったら不必要に心象を悪くするだけというのが第一。嫌われて良いことなんかなにもないから、クラスメイトとは友好な関係を築ける方が好ましい。……それで入江みたいに過剰に頼りにされては元も子もないが、この程度は必要経費として割り切れる。

 それから、もう一つ。


「文章全体の構造を把握しようと思ったら滅茶苦茶予備知識が要求されるから、こういうのは段落ごとの理解を重ねていくのが一番手っ取り早いっていうのが持論。そういうの諸々含めると、重要なのは前ページの――」


 解説は得意な方じゃないが、やってやれないこともない。なにより、ポンコツだ要領最悪だとバカにしてきた相手の前でみっともない真似はできない。要点だけかいつまんで説明するとクラスメイトは得心に至ったようで、それを良しとして「後は入江に聞いてくれ」と丸投げ。

 まあ、こんなもんだろうと思う。今朝に人の頼り方を覚えろと説いた身で、その日の昼に救援要請を無視できまい。思考の一貫性を保持するために、これは必要な作業だった。

 

 じゃあ今度こそ自販機探しの旅だ。……そう思いながら踵を返してドアの方に向かうと、またしても知った顔が目の前に現れた。


「あっ、悪い」

「いえ、こちらこそ」


 どこかから戻ってきたのだろう文月と、道の譲り合いが発生。フェイントのかけ合いみたいな時間が何秒か続き、そこでもたもたしている間に、今しがた俺が国語を教えた女子が一言。


「越智くん、ほんとに頭いいんだね。超わかりやすかったー」

「…………?」


 文月がこてっと首を傾けた。彼女も彼女で俺の性格を理解しているので、状況の飲みこみが遅れているのだろう。この場でそれを察せる人物は俺と、あと――


「授業の解説してもらってたの」

「まあ」


 入江からのさりげない補足説明。よし、珍しくナイスパス。文月は目を若干大きく開いて驚きを表しているようだったが、いい加減周囲の女子比率の高さに圧倒され始めていたので、いよいよこの場から離脱しようとこっそり動き出して。


「それなら、私も色々とお伺いしたいです」


 文月が言う当たり障りのない社交辞令に「機会があればなー」と適当に返しながら……。


 俺は、一秒先に投下される超大型爆弾の存在に気付きもせず……。


「葵さんに、ぜひ」



 瞬間、空間がまるごと静止したような、あまりにも強烈な衝撃がクラスを駆け巡るのがわかった。



「…………へ?」

「ああ、越智くんのファーストネーム。……ファーストネーム?」

「文月さんってみんな苗字呼びじゃなかったっけ?」

「いや、入江さんだけは違った気が」

「……どっちにしろどういうことだ?」

「なあ越智」

「おーい越智」


 俺はお茶か。普段ならそんな具合で適当にツッコミを入れるところだが、どうにも軽口が許される空気じゃない。なんでか男子は殺気立っていて、女子は全体的にひそひそし始めている。肝心の文月は少し遅れて状況を理解したようで、先ほどの入江よろしく手で口許を覆っていた。


「い、いや、越智さんって呼ぶとおじさんみたいで格好つかないからっていう配慮だ配慮。……な?」


 越智さんって呼ぶな。葵さまはやめてくれ。俺の細かい注文に答えた結果、彼女が選んだ呼び名がそこに落ち着いたというのはわかる。わかるが、いかんせん刺激が強かった。彼女が異性を名前呼びしている姿など、おそらく誰も見たことがないだろうから。

 俺は苦し紛れに言い逃れて、さあ肯定してくれと後を文月に任せる。……その結果。


「え、ええ、はい。その方が良いというお話でしたので――」


 あー、まずい。……そう思ったときには、既に手遅れだった。


「お話?」

「お話とは?」

「お話する関係ってこと?」

「文月さんとお話……」

「俺許せねえよ……」

「なあ越智」

「おーい越智」


 彼女と個人間の交友があると割れた時点で、俺は嫉妬の対象になる。分かり切っていた話ではあるが、いざ直面するとなかなかどうして反応がえげつない。お前らどんだけ文月に入れ込んでんだよと反駁したいのを必死に堪えながら、「あー、職員室に用があんの忘れてたー」と白々しく言い放って即座に逃走開始。


 もしかすると、本当の厄日は昨日ではなかったのかもしれない。そんなことを思いながら、追っ手を撒くだけで俺の昼休みは使い果たされた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る