第7話 ある昼休み

「入江さん入江さん、さっきの授業で習ったところ、詳しく教えてもらっていい?」

「ああ、これはね……」


 釈然としない。しっくりこない。そんな感想を、教室の端で文庫本を片手に思った。

 入江の身分と頭脳とは、既に学校の誰もが知るところとなっている。好奇の的になるまでは一瞬で、休み時間になるたび誰かしらが彼女のもとに寄り付いては話をする。そんな光景を何度も目にした。来るものを拒まないのは美徳だろうが、果たして入江とばりがそういう人間だったかと問われれば答えはノーだ。


「慣れない無理なんかしやがって……」


 小中ではむしろ、彼女は頼る側だった。努力家ではあるがどこか抜けていて、それを不安視した友人数名があれこれ世話焼きをしていたように思う。やれ忘れ物はないかだの、やれ課題は提出したかだの、同級生女子からは手のかかる妹的な存在として認識されていた。魔的な容姿の端麗さがダメな部分をちょうどよく中和していたが、基本的に入江とばりは、人の力を借りてなんとかするタイプの人間。

 それが、事情を知らない場所に来て立場が一変するのだから、やはり身の上など広く知られるべきではないのだ。


「…………」

 

 時間を確認する。昼休みに職員室への呼び出しを受けていて、実は俺も内心びくびくしていた。生活態度と成績に目に見えた問題はないので、詰められるとしたらアルバイトのことくらいしか思いつかない。それだって一応の許可は得ているが、よく思わない教師もいるだろう。

 定刻の五分前になったので、早めに動こうと席を立つ。入江は相変わらずたじたじになりながらも必死に応対を続けており、これ以上は見ていられないなと判断して、ちょうど俺の方に視線を向けていた文月に目で合図をする。


「入江さん、私も少しよろしいですか?」


 行動は迅速。文月は会話の合間に違和感なく滑り込んで、机の上に弁当箱の包みを載せた。


「お昼、ご一緒しても?」


 文月が言う。すると、周囲に何人か集まっていたクラスメイトたちが蜘蛛の子を散らすようにさーっと去った。気持ちはわかる。あの二人が一堂に会するとその空間の容姿レベルが著しく引き上げられるため、なんだか触れてはならないような気分にさせられるのだ。二人の会話は以前からの交流を感じさせ、それに割って入るのがためらわれるというのももちろんあるとは思う。文月の身分がどうこう言われるのだって、時たまああして入江と接するからに他ならない。金持ちの知り合いは金持ちと相場は決まっている。


「もちろんよ、ミア」


 入江も鞄から昼食を取り出し、「まだまだ上手く作れなくって」とか、「でしたら週末にでも機会を作って料理講座を」とか、仲睦まじくやっている二人を尻目に教室から出る。文月の助け舟なしには昼飯のタイミングすら自分で作れない入江だが、今後クラスが離れるなんて事態になったときにはどうするのだろうか。……いや、俺が心配することじゃないんだけど。

 

 努力自体は評価している。会話から察するに、あの弁当は今朝俺と散歩に見せかけた徒競走をした後こしらえたものだろう。家庭科でしか料理をしたことがないような奴が、よく頑張ったものだ。……けれど、少し無理をし過ぎなのではないかと、不要な勘繰りをしてしまう。


 これもまた、俺が心配するようなことじゃない。余計なお世話。無駄なお節介。彼女が自分の意思でここにいる以上は、過干渉などもってのほか。……それよりなにより。


「他人、だもんなぁ」


 呟きながらとぼとぼ歩く。体がどうにも重いのは、昨晩のドタバタゆえだと思いたい。


********************


 職員室に入室してきょろきょろしていると、端にある休憩スペースの間仕切りからにゅっと腕が伸びて、俺に向かって手招きをしてきた。それに従って近寄ると、そこには目標の人物が。

 黒を基調とした落ち着いた服装で威厳を出そうとしているのだろうが、顔の幼さでそれが台無し。まだ学生と言っても余裕で通るだろうその人は、俺のクラスの担任教師。


「ごめんねぇ越智くん。お昼はもう食べた?」

「一つ前の休み時間に。……笹原先生、もしかして自分、なにか悪いことしました?」


 ソファに深く腰かけた彼女は「そんなそんな」と手を顔の前で振って、俺にも座るよう促す。断る道理もないのでクッションに体を沈め、脚をそろえる。


「ちょっと聞きたいことがあってね。でも教室でするような話ではない気がして、来てもらったの」

「教室ではできない話、ですか」


 ひとまず、俺がなにかやらかした線は消えた。肩の力を抜き、「と、言うと?」と本題へ。


「……今年、この高校には過去進学実績がなかった名門私立中学からの入学者が三人もいてね」

「ああ、なるほど……」

「うん。……もしかして越智くんのお宅って」

「概ねお考えの通りだと思います」


 正直、ちょっとだけ拍子抜け。そのくらいの話なら教師間で共有されているものだと想定していた。その上で、扱いに困る生徒を一つのクラスにまとめてしまって、歴の浅い新人に面倒な担任業務を押し付けたのだと。……あるいは笹原女史にだけ知らせず、把握しているのはお偉いさんだけというもっと腹の黒いパターンもあるが。というか絶対そうだが。


「高校生になったらその後の人生は自分で選ぶって伝統がウチにはありまして。入江も事情は似たようなものです。……文月だけ少し特殊なんですが、彼女も親からの言いつけでここに」


 傍仕えがどうこう言っても話がややこしくなるだけ。現在の焦点がそこにないのは承知している。

 笹原先生の視線は俺でなく、テーブル端のお茶うけに。そこに並んだ品々には見覚えがあって、ほぼまちがいなくウチが関わっている商品だ。


「そっかぁ……。すごいねぇ」

「すごいのは俺の先祖なんでなんとも。……それより、すいません。一クラスに問題児三人は厳しくないですか?」

「問題児なんてとんでもない。三人とも成績優秀で、この前の中間の平均点は一組が一番だったんだから」

「いや、それが結構まずいのではという話でして……」


 この高校は一学年八クラスで構成されている。そのうち七つは普通科なのだが、残る八組はというと……。


「特進に勝っちゃうと、先生の間で変な摩擦があったり……」

「あー……うん。それは大丈夫。生徒が心配するようなことじゃないんだから」


 やはり、なにかはあるようだ。特進科の八組は、普通科と併願できたように記憶している。偏差値は普通科よりいくらか高く、この学校には『特進にはあぶれたものの普通科には受かった』みたいな生徒も多い。複雑なカリキュラムで授業を進める彼ら特進クラスだが、考査の問題は普通科と同一。普通科への優越感と、負けられない焦燥感とで生徒を育てる仕組みなのだろう。逆に普通科は見返すべく奮起せよと。


「今期の中間は特別難しく作ったせいで、できる層とできない層にそこまで差が出なくて。……それで一組に一位から三位までが在籍しているものだから、頭一つ抜けちゃったね」

「胃痛とか平気です?」

「心配ありません。みんな私の自慢の生徒だもの」


 さらりと言われたが、総合順位の発表はまだ。どうせ入江、俺、文月の順だから聞くまでもないけれど。……それにしても、ずいぶんと歪な成績分布でクラス編成をしたものだ。


「……それで、今日はその確認のために?」

「ええ。あと、私の方針も教えとかなきゃって」


 方針? と首をかしげていると、先生は立ち上がって言った。身長百五十センチにも満たない小さな体躯で、それでも胸を張って。


「特別扱いは決してしません。あくまで普通の生徒と同じように接するので、心しておくように」

「……助かります」


 それを求めて家を出ている。一般社会に混じろうとしているのに、開幕VIP待遇ではやっていられない。


「良いことをしたら褒めて、悪いことは叱って。そういう普通のスタンスでいていただけると幸いです。……俺だけじゃなく、入江も」

「文月さんは?」

「あいつの出来の良さは俺たち二人と比べちゃダメですよ。いい意味で手のつけどころがないです。……過去、歳の近い教師というものに触れてこなかった自分たちに、笹原先生の存在は大きなものになると思います。どうか、よろしくお願いします」


 ですます言い過ぎて舌が麻痺しそうだ。だから、完全に痺れてしまう前に、もう一言付け足しておくことにした。


「入江は特別注意しておいてもらえるとありがたいです。今は立派に優等生やってますけど、あれ、いつか確実に破綻するんで。同級生の俺の言い分は聞かなくても、先生だったらおそらくは」

「……仲いいの?」

「腐れ縁です。商売敵なんで」


 十歳も離れていないだろう彼女は、俺の反応に「ふぅん」と意味ありげな返しをした。……なにか勘繰っているようだが、断じてそういう関係ではないので勘弁。


「……承りました。びしばしいくから覚悟しててね?」

「お手柔らかに。今度差し入れ持ってきますので」

「ぐぬ、いきなり買収宣言」


 そう言いながらも「私は甘党です」と謎の独り言が聞こえてきた。向こう一年気苦労をかけるのはまちがいないから、その程度のオーダーを聞き届けるくらいはわけない。


「あ、越智くん」

「……なんです?」


 話は終わりだと見て退出しようとしたところを呼び止められ、振り向いた。――先生は両こぶしを胸の前に握りこんだ姿で、「ファイトだよ!」と謎の激励を俺に残し。


「了解です」


 俺も笑って立ち去った。

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