第8話 本雪崩
運は良い方だと思っている。めぐり合わせと言った方が通りは良いかもしれない。
入学試験をまあまあ好感触で終えた三月の上旬、俺はその帰り足でふらっと知らない商店街に立ち寄って、さらにそのまま一件のさびれた古本屋に迷い込んだ。古書特有の匂いが充満する落ち着いた店内を一望して、そういえば新居の内装はどうしたものかと一考して。――それからすぐ、違和感に勘づく。
「雪崩……」
入り口の方からは死角になっている奥の棚が、なにもかも滅茶苦茶に崩壊していた。本来陳列されていたのだろう歴史小説が山になって通路を塞ぎ、そもそも壁に据え付けられていたらしい書棚そのものが大きく傾いてしまっている。そんな惨状。
店員は見当たらない。俺はこのタイミングで人を呼んだら犯人扱いされそうで嫌だなと打算を働かせつつも、放置しておくのは後味が悪いということで「すいませーん、どなたかいらっしゃいませんかー?」と店の奥へ呼びかけた。――しかし、返事はなし。当たり前と言えばそうで、本棚崩壊に伴ったであろう轟音に気付いていない以上、俺の声なんか届きようもない。
店主は耳の遠くなった老人なのかもしれない。そんな推測を立てつつも、どんな本が散らばっているのかの検分を始める。下手に棚を起こしても二次被害が起きかねないから、せめて資産価値の高そうなものだけでも場所を移そうという魂胆だ。手近な数冊を手に取り、背にある値札を確認。どれも基本ワンコインで、モノによっては百円を割っている。同い年の学生と比較したら商売や経営に若干敏感だという自負がある俺的としては、これでどうやって採算を取るのだと不安になってしまう。
そうやって、一冊、また一冊と確認作業に励み始めた、そのとき。
「えぇ……マジ?」
ここで初めて、見て見ぬふりで帰ればよかったと後悔。なんなら回れ右してやろうかという考えが一瞬頭をよぎったものの、あまりにも非人道的すぎるのでセルフ却下。――指が見えた。積もり積もった本の山、俺が少しだけ崩した隙間から白い指先がちらりと覗いたのだ。
つまりは、老朽化した書棚が自壊したのではなく、誰かしらの手でとどめを刺された結果が今なのだろう。これは単なる物損事故ではなく、人身を巻き込んだ生き埋め事故。だとすれば、埋まっている人は俺と同じ客かもしれない。指先を見た感じではまだ若そうで、下手を打てばこの人の立場に俺がいたかも。そう思うと放ってはおけず、邪魔になっている本をずんずん横へ避ける。手首、腕、と徐々に全貌が明らかになっていく中、この人の性別が女性であるのも判明。脈もあるので、俺が警察から取り調べを受けることもなさそうだ。
そうして、慎重を期した掘り出し作業をすること数十分。俺はやっとのこと、被害者の胸から上が見えるくらいまで本の山をかき分けた。
「ん、んん……」
「大丈夫ですか? どこか痛むところは?」
「ん~、ふぁ~あ」
「は?」
聞きまちがいでなければあくびだった。あまりにもこの状況に似つかわしくない行動に眉をひそめていると、ようやく目を開いた女性がぱっちりした目で俺を見上げて。
「ごめんなさいね、ここのところ徹夜続きで疲れてて。……で、あなたはお客さん?」
「客と言えば客ですが……」
まずは、自分の状況を省みるべきでは? 俺がそう言って初めて、彼女は今がどうなっているかに気が付いたようだった。――そしてそのまま、これが俺と彼女との出会いにもなった。
「お疲れさまでーす」
間延びした声で挨拶すると、カウンターから「おー来た来た」と声が。「そりゃあバイトなんだから来ますよ」と言って、客から見えない位置にかけてある従業員用のエプロンをかける。
「栞さん、今日もまた寝不足ですか? クマがとんでもないことになってますけど」
「いやぁさぁ、会社務めが嫌でこんな稼ぎを始めたっていうのに、普通に働くよりよっぽど神経すり減るんだからバカだよねー」
栞さん。俺がそう呼んだ彼女こそ、三か月前に本の山の中で危うく最期を迎えかけたこの古書店の店主だ。老人が切り盛りしているのだろうという予想は大外れで、彼女の歳は24。まあ、祖父母が経営していて、もうじき畳む予定だった店を大学卒業を機に継いだというのだから、外れもなにもないか。
いつも寝不足で有名(主に俺の中で)になってしまった彼女は、充電器に接続しっぱなしのタブレットを指先でついついと操作しながら、
「よぉし少年。ヒット? スタンド?」
「……スタンド」
「お、いいね」
俺の答えるままに、彼女はなにかしら操作。そしてその数秒後、ぱちぱちと手を鳴らした。
「君の保守的なスタンスがディーラーのバーストを招いたぜ。少年、才能あるよ」
「ハンドもわかってない相手にブラックジャックの舵取り任せるとか正気の沙汰じゃねえ……」
「ちなみに、今のレート500ドルね。さらにちなんじゃうと、今日だけで二ケタ負けてる」
「やっぱり正気の沙汰じゃねえ……」
栞さんが興じているのは、実際に金銭のやり取りが発生する海外サイトのオンラインカジノ。これなら日本でプレイしても合法だし、それで生計を立てている人が少数存在すること自体は風の噂で知っていた。しかし、街の本屋で出会った若い女性がそうだとまでは思わんだろ、普通……。
通貨をごちゃ混ぜで話しているからわかりにくいが、今の二ケタというのはおそらく日本円。最低でも十万円は失っているということになって、それが庶民感覚でも俺感覚でも大金であることはまちがいない。……しかし、栞さんの表情に不思議と焦りはなかった。
「賭けごとには短期的な波や流れが存在するけど、中長期で見たら確率が支配する数学の世界だからね。トータルで勝ってればそれでいいんだよ」
「どう考えても、その場のノリで素人判断に委ねた人の言葉には思えないですわ」
「まあまあ、ビギナーズラックってあるから」
「俺の運を勝手に吸わないでくださいよ……」
彼女が余裕なのは、総合的に見ればプラスだから。それも、普通に生活できるレベルの儲けが出ているから。だからこそ、閑古鳥が鳴いて維持費だけが嵩む古本屋を営み続けても問題はないし、そこに不要な学生バイトを雇うことだってできる。……まあ、それが俺なんだけど。
「少年も来たし、今日はここまで」
タブレットがカウンターテーブルに置かれる。俺はそのまま店の奥に繋がっている居住スペースへ招かれて、いつものようにお茶を出してもらった。――そう。俺はバイトとは名ばかりの、ただの雑談相手として雇用を受けている。家に引きこもりがちで世俗に疎くなってしまいがちな栞さんに適度な刺激を与えつつ、退屈から遠ざけるのが業務内容だ。これで金がもらえるとか世の中いくらなんでもちょろすぎる。……なんて、自分から「働き口に心当たりはありませんか?」などと問うた身で言うのは野暮だが。
新生活を控え、俺が抱えていた大きな不安。それはつまり、どこで生活資金を捻出するか。もちろんバイトをするのは確定事項だったのだけれど、どこで働くかによって色々事情が変わってくる。……それを窮地を助けた弱みに付け込む形で聞くのだから、「ここで雇ってもらえませんか?」と言っているのとほぼ同義だ。結局、俺は美味いこと今のポジションに就き、特に苦も無く給金の受け取りに成功している。
「なんにします? 学校? それとも実家の話」
「その二つを並べられて、学校でなにがあったかを聞く奴なんていないぜ」
長い髪をヘアゴムでひとまとめにした栞さんは、当たり前だよとけらけら笑う。――最初の勤務日、どうせならと差し入れを持ってきたのが迂闊だった。ギャンブルの世界で生きていくのを決めた人が鈍いはずもなく、『越智製菓。越智葵。……もしかすると、もしかする?』なんて、一瞬のうちに看破。俺としても、学校以外でバレる分にはそこまで抵抗はなかったので『実は……』と認めた次第である。
「じゃあ今日はとっておきの、昔一族全員いっせいに青ざめた異物混入事件の話を――」
機密に割と深く踏み込んだ暴露トークを始めようとした瞬間、「ちょい待ち」と栞さんが俺を制止。なにごとかと思えば、店の方から声が聴こえる。
「一応はお客を優先しなきゃね。君のその話はあとから絶対聞くけども」
「オチは超しょうもないんですけどね」
おろしたばかりの腰を持ち上げ、彼女の後に続いて店舗部分に早足で戻る。「すいませーん」という声は確かに続いていて、しかしその声音にはどこか覚えもあって。
「ありゃりゃ。モデルさんかなぁ?」
驚いたように栞さんが言う、目線の先には。
「あ、お疲れ様です、葵さま」
「……文月」
目立つ髪色、目立つ顔立ちの高校生が、華麗な立ち姿で佇んでいた。
「ん、少年の知り合い?」
「知り合いというか、なんというか」
ほぼ身内です。そう告げると、栞さんはたった一言。
「パないな、金持ち」
うーん、まあ、気持ちはわかる……。痛いほど……(謎の五七五)。
しかしどうして彼女がここにやってきたのかわからず、俺は茫然と作り笑いを浮かべるしかできなかった。
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