第31話 あなたがこれを観ているということは

 画面が揺れる。ピントがぴたりと合うまで数秒を要して、その間に『まだね、まだ待っててね』と聞き慣れた声がした。どうやら撮影者は母らしく、その手際の悪さを見守る入江母の目は温かい。二人が仲の良い友人であったという事実が、数秒のやり取りだけでもはっきりわかる。

 周囲の計器から当初は病室で撮ったものかと思ったが、内装の豪華さから見るにそれは誤りのようだ。であれば私室と見るのが妥当か。ファンシーなぬいぐるみが画面端に見切れていて、なぜだかそちらが気になった。


『はい、じゃあどうぞ』

『んー、んんっ……」


 芝居がかった咳払い。その後に、入江母はカメラ目線で手をひらひらと振ってみせた。


『久しぶり……であってるかな? ご覧の通りママです。いぇい』


 両手でのピースサイン。明らかに見せる対象を限定したムービーで、もちろんその対象というのは俺じゃない。つまるところが場違いで、居たたまれなくなって視線を外した。――だが、母さんはそれを目ざとく見つけて。


「大丈夫大丈夫、葵もちゃんと観ておかないと」

「つってもな……」


 後頭部を掻きながら、渋々再度画面を見やる。そこに映っている女性にはところどころ娘とダブるところがあって、親子だなぁとしみじみ感じた。ところで奴はどんな心持ちでこの映像を観ているのかと、横を確認してみれば。


「…………」


 既に限界のようだった。入江はなにかをこらえるように顎を持ち上げて天井を見上げながら、眼球を乾かすために必死で目を見開いている。心の準備もなにもないままに、亡くして久しい母親の新たな姿を目にしたのだ。感慨もひとしおだろうと、ポケットに手を突っ込む。


「ほれ」

「……ん」


 手元へ強引にハンカチを押し付けると、彼女はすぐさまそれで目元を覆った。泣き姿など見られたくないだろうし、俺も見たくない。ふるふる震える唇を真一文字に引き結んで、入江は小声で一度「ママ」とだけ言った。そういうの、いくら俺でもちょっと揺れるからやめて欲しい。


『この映像を観てるってことは、ママはもう死んじゃってるんだよね。当たり前だけど、実感ないなぁ。そりゃあ体はあちこち痛いし苦しいけど、だからといって死期や終わりは全然わかんないもん。……ただ、お医者さんがあと何か月って言う以上はそれを信じないわけにもいかなくてね』


 困ったように頬を綻ばせ、首を傾ける入江母。その苦し紛れの笑顔は、娘のそれによく似ていた。


『一応、保険のつもりで撮ってます。まだまだ死にたくないから十年でも二十年でも悪あがきするつもりです。……でも、現実としてそれはちょっと厳しいかなって、最近思うようになっちゃって』


 たぶん、具合が芳しくないのだ。気丈なふるまいでは隠しきれないほど、肉体の方にガタが来ている。目はどこか虚ろで、呼吸の一つ一つすら頼りなく、数秒後に倒れこんでも不思議だとは思わない。見える部分だけでそうなんだから、見えない体の内側がどうなっているかは考えたくなかった。


『じゃあ、どこから話そうか。結婚から……はちょっと長くて退屈だろうし、とばりが産まれた頃がいいな。こんなこと聞いちゃったら怒るかもしれないし、最初にごめんなさいって謝っておくんだけど……実のところママはね、あぁ、これでもういいやって思ってたの』


 また、いたずらっぽく笑っている。娘の融通のきかなさとは対極的に、意外とお茶目な人だったらしい。


『ずーっと病院と仲良くする人生でね。なにをするにしても死が日常にちらつくような、落ち着かない毎日を生きてたんだ。だからできるだけ夢とか希望とかやりたいこととかを持って、意地で未練がましく命をつないでた。こんな恋がしたいとか、ここへ旅行に行きたいとか、ウェディングドレスはこういうデザインがいいとか。そう思っている間は辛いことも苦しいこともなくなって、楽しかったから』


 手ブレが酷い。きっと、昔の母さんがこの時点から感極まってしまったのだ。入江母はそれを宥めつつ、カメラに向けて続けた。


『神様もそこまで意地悪じゃないみたいで、強く願ったことは結構叶ったんだ。パパと出会って、こんな明日どうなるかすらわからない女でもずっと一緒にいたいって言ってもらって。……ね? あ、貴重な親の惚気シーンなんだから、きちんと脳裏に焼き付けておくように』


 追加情報。母さんと入江母がマンツーマンで撮影しているものだと思っていたが、画面外にもう一人誰かがいるらしい。そして、それが入江父であるのは明白過ぎるくらいに明白。


『話を戻すね。まあ、こんな弱っちいママだから、子どもは産めないだろうなって思ってたの。小さい子は好きだったけど、それに限ってはどうしようもなくて。……でもね、お腹にとばりが宿ってるってわかった日、不思議と産まないなんて選択肢は出てこなかったな』


 下腹部を優しく撫でつけながら、彼女は続ける。


『妊娠期間はすごかった。妊婦さんでも使える薬をあちこちから探して取り寄せたり、つわりなのか持病の発作なのかよくわからなかったり。途中何度も無理かもしれないなーって思って、でもそのたびに気合いを入れ直して。お腹の中のとばりもすごーく頑張ってくれて、色んな人の助けのもとで、なんとか母子無事に出産にこぎつけたの。……で、そこで思っちゃった。こんなに幸せなら、もうここで死んでもいいやって』


 緊張の糸が切れたのだろう。生まれたときからずっと張り詰めてきた意思が、その瞬間を境にほろほろと崩れていったのだ。自分の生きた証をこの世に残し、もうこれ以上は望めないと。


『……でもね、気をつけなよ。人間って、とてつもなく欲が深いから。死んでもいいなんて思ったくせに、せめてとばりの授乳期が終わるまで、せめてとばりがはいはいするまで、せめてとばりにママって呼んでもらうまで……そうやってどんどんどんどん意思が揺らいで、最後には孫を抱くまでは死ねないなってところまでたどり着いちゃった』


 肩をすくめ、おどけてみせる。ただ、観衆は誰一人として笑い声をあげない。


『限界を先延ばしにしてるだけだっていうのは、自分でも薄々わかってた。……でも幸せだったから、いくらなんでも幸せ過ぎたから、きっとあと何年だって長生きできるって、そんな気になって。…………だけど、ママ、ここまでみたい』


 この時になって、ずっと意識して被り続けていたのであろうお道化の仮面が外れかけた。目にたまった涙がせめて流れ出さないようにと上を向く仕草は、そのまま娘に継承されている。


『怖いな。うん。とっても怖い。死にたくないし、もっとずっと生きたいし、正直今すぐ泣き叫びたい。……でもね、しません。とばりのトラウマになったらいやだし、それに、ママは強い女だったんだぞって、そう思っていてもらいたいもの』


 画面の内から外から、すすり泣く声がする。強烈過ぎるメッセージに、俺もすっかり気圧されてしまった。


『あー、悔しい。大きくなったら一緒に料理を作ったり、服を選びに行ったり、母親として教えたいことなんかいくらでもあるのになぁ。……寂しい思い、させちゃうだろうなぁ』


 これはもう、母親という生き物の習性なのだろう。死の直前まで我が子を思い、なにかを残そうと必死になる。命の使い方に関してずっと考え続けてきた彼女には、特にその傾向が強い。ひしひし伝わる無念さに瞑目し、ゆっくり深呼吸する。……やはり、俺が聞いていいメッセージだとは思えない。


『勘違いはしちゃダメだよ。たぶん、とばりがいなかったらもっと早くに死んじゃったと思うから。とばりがいて、ずっと一緒にいたいと思って、それで今日があるの。未練はいっぱいあるけど、後悔はなにひとつありません』


 彼女を生んだことによって命が縮んだわけではないと言う。真偽のほどは定かでないが、思わず信じたくなってしまうような強い言葉だった。そしてきっと、誰がどんな文句をつけようが、それが入江母にとっての真実なのだ。死に触れ続けた人の、力のこもった訴えなのだ。


 入江はぐすぐす鼻を鳴らし、どうしようもなくなってしまったように俺の裾を引っ張った。さすがにそれは払いのけられなくて、気づいていないふりでやり過ごした。


 メッセージは、まだ続く。

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