第30話 VHS
美人薄命。元々が病弱な人だったと聞く。生まれたときからあちこち悪くて、成長していく過程で更に新しい病を抱えて。俺が産まれた時点で病院と家にいる時間が半々程度だったのが、徐々にその割合を病院側に傾かせ、そして回復の見込みがないことを悟ったあとは自宅療養に移った。母は強しの言葉を裏付けるように余命宣告を大きく覆して入江がランドセルを背負う姿を見届け、その短い生涯に幕を下ろしたらしい。
生前の姿はほとんど記憶に残っていないのに、未だ葬儀の思い出だけが頭に焼き付いて消えない。化粧を施された安らかな美しい死に顔はこの世のものとは思えず、棺に縋りついて声を出して泣いていた入江の姿も相まって、幼少の俺に死という出来事を理解させる大きなきっかけとなったように思う。
入江とばりの変化の兆しは、確かこのころから現れ始めたのだったか。
「こういう服、夜葉ちゃんも大好きだったからね。きっと今、遠くで笑ってると思うな~」
「ママが……」
あっさり丸め込まれている。個人の趣味嗜好を知る術を持ち合わせてはいないので、それが事実かどうかは推し量れないけれど。ただ、母の性格からいって嘘をついているとは考えられず、いわゆる類友で仲良くなったのだろうなぁとわかった。
「とまあ、そういうわけだから」
極めて自然な所作で入江を抱き寄せた母は、そのまま彼女の背中を何度かゆっくりさする。最初こそわずかな抵抗の意を覗かせていた入江だったが、すぐに受け入れされるがままと化した。言葉にしているところを見たことはないけれど、やはり母性への飢えが深刻なのだろう。普段は高い自立心を保とうと躍起になっている彼女だが、母さんの前ではそれも形無し。差し詰め餌に釣られた野良猫がごとく、あっさり懐柔されてしまっている。
「葵もどう?」
「俺は間に合ってる」
「まあ」
腕にもう一人分のスペースを作って母さんは言ったが、さすがに固辞。十代も半ばになる男としては、いくらなんでも行為に求められるハードルが高すぎる。……しかし、俺の言い分は曲解を受けたようで。
「普段は誰で補充しているやら」
「たいよう」
「本当に~?」
「他に誰がいるってんだ」
「葵もお年頃なんだし、彼女の一人や二人いてもいいんじゃないの?」
「いないし二人目以降はギルティ」
この国は一夫多妻を認めていないのだから、二股だって許容されない。そもそも俺に色恋で浮いた話なんて……と否定を挟もうとして、いやあったばっかりだわ……と口を噤む。
「そうだ母さん、親父のことで折り入って話があるんだけど」
「ん~、なにかしら?」
「いや、こいつの前ではちょっと……」
いかんせんショッキングな内容だ。文月は入江から見ても代えがたい無二の友人であって、それが許嫁だなんだと言われた日にはどんな反応を見せるかわかったものではない。あっさりボロを出すことにおいては右に出る者のいない彼女だから、ここでのカミングアウトは致命傷を生む可能性がある。
「ダメよ葵、こいつなんて言っちゃ。言葉遣いは服装や髪形と同じで、人の第一印象に関わるんだから」
「ああつい……。今後改める」
「それで、どんなお話?」
「身内の恥だからできる限り内々で済ませたいんだけど」
入江に目をやる。本当だったらしばらく外に出ていてもらいたいところなのだが、この服装で人目に晒すのはいくらなんでも酷か。俺も鬼ではないので、部屋の中で可能な限り距離を取ってから、耳打ち程度の小声で。
「あんまり驚かないで……って言っても無理な話か。経緯が複雑だから端折って話すんだけど、なんか俺、結婚相手が予め決まってたみたいで」
「あら」
もっと派手なリアクションがあるかと思えば、そうでもなかった。母さんは目をちょっと見開いただけで、後はいつも通りに平然としている。むしろその反応の薄さに俺が驚くレベルで、動きがない。
であればこそ、次に放たれた一言が持つ破壊力は、俺をぎょっとさせるに十分だった。
「まだ話していなかったはずだけど、やっぱり長く一緒にいるとわかっちゃうものなのね」
「……は?」
その言い分は、まるでこの度の許嫁騒動を前もって知っていたかのようで。
それでいて、言動からはイマイチ歯車が噛み合っていない雰囲気を感じる。
「……知ってたってこと?」
「知ってるのなにも、お願いされたのは私だもの」
「いやいや、それだと色々矛盾、が……」
ちょっと待て。突然、脳がアラートを鳴らし始めている。この食い違いを説明可能な形で出来事の調整を行ったとき、たどり着く結論は……。
いや、まさか、そんなこと、いくらなんでも。
でき得る限り楽天的な思考を引っ張り出そうとして、しかしそのことごとくが失敗に終わった。俺の中では既に一つの結論が出てしまっていて、それが厳然たる事実だろうという確信めいたいやな直感もある。だからといって無抵抗になにもかも受け入れられるわけがなくて、きっと悪い夢だと信じて自分の頬をつねってみたりした。……だが、判明したのはこれが現実であるということのみ。
「本当はもうちょっと先に教えるつもりだったんだけど……。でも、知っているとなれば話は変わってくるわよね」
「なにを……?」
おもむろに立ち上がった母さんは部屋にあったオーディオ機器をがちゃがちゃいじって、そして最後に、現代には到底似つかわしくないオーパーツを取り出した。
「ビデオテープって……」
VHS。幼少期はギリギリ現役だったが、すぐDVDに取って代わられてしまった古の映像媒体。それに収まっているとなれば、当然ながら古い情報になるわけで。
しかも、その背表紙に書かれた簡素なタイトルがまた、俺が抱いている不安を強烈に煽るのだ。
「とばりちゃんもこっちにおいで。どうしても、観てもらいたいものがあるから」
たった四文字『とばりへ』とだけ書かれている。ああ、まずい。逃げたい。帰りたい。……そんな俺の焦りをよそに、無慈悲にも映像の再生はつつがなく始まって。
そして画面には――在りし日の入江夜葉の姿が映し出されたのだった。
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