第29話 ふわふわひらひら

「おーい母さん、ちょっと親父をとっちめて……」


 お願いついでに部屋へエントリーしたところ、またしても情報の暴力が俺の思考を阻害した。後始末を俺が請け負うにしても、親父には一度誰かが灸をすえねばならない。そしてそれが可能なのは文月のおじさんか母さんくらいで、今回に至っては母さんにしか頼れない。――そういうロジックを形成していた脳みそは、瞬時に破壊されてしまった。


「お疲れ葵~」

「……お疲れさま」


 平静を装いながら、しかし内実これ以上ないほど不貞腐れた顔で、入江はそこに立っていた。

 表情にはそこまで問題がない。いたっていつも通りの入江とばりだ。――不思議の国のアリスだってここまでじゃないぞと断言できる媚びっ媚びのロリータファッションに身を包んでさえいなければ、俺の表情筋が不気味に引きつることだってなかった。


「えと……」

「もー。葵ったらとばりちゃんにすっかり見とれちゃって」


 上から下まで純白の、着せ替え人形にでも付属されていそうなドレスだった。ちょうど母さんの趣味ど真ん中のそれは、明らかに入江の体格に合わせて仕立てられたオーダーメイド。ふわふわ膨らんだスカートといいひらひら揺れる袖口といい、オタクが考えたありとあらゆる萌え要素の集合体みたいな格好だ。

 見とれたという表現にはいささか語弊があるものの、視線が釘付けになったことは否定しようがない事実だった。当初は俺の頭がイカれたかに思われたが、何度目をこすろうがそこには確実に入江が存在している。頬を染め、やや内股気味になって母さんにバレない角度で俺を睨んで、無言で「見るな」の訴えを発するその姿には、確かに普段の小憎たらしさが滲む。ただ、服装のせいもあっていつも以上に威圧感に欠ける印象だ。


「素材の差よねー。こんなお姫様スタイル、普通は頑張ったって着こなせないんだから」

「……お、おばさま、葵に見せたんだからもう着替えても」

「え~、せっかくなんだからもう少しくらいこのままでいましょうよ。……それに」


 言って、母さんは意地悪く微笑んだ。


「まだ感想を聞いてないでしょ?」


 うふふむふふと頬を綻ばせる母親に、この人はこの人で親父にはない面倒くささがあるのを思い出した。一筋縄でいかない親の元に産み落とされた俺は、いったいどうすりゃいいんだろうか。

 

「感想って……」


 かわいいとか、似合ってるとか、それらしい美辞麗句は思い浮かぶ。問題があるとすれば、たとえその場しのぎのおべっかであったとしても、そんな歯の浮くような誉め言葉を俺がこいつに言える気がしないことだ。言ったら最後、大切ななにかが失われてしまいそうな気さえする。


「いやいや、思春期の我が子にそれはハードル高いって」


 ゆえに、逃げ道を探すしかない。そもそもこれからそれなりに真面目な話をするつもりでやって来たのに、開始早々雰囲気を桃色にされてはたまらない。


「でもでも、とばりちゃんは『葵はこういうの好きだと思うなー』って教えてあげたら乗り気に……」

「ちょっ、ちがっ、わたしはただおばさまの喜ぶ顔が見たかっただけで!」

「それじゃあ葵が来るまでそわそわしてたのと辻褄合わなくなっちゃうなー」

「それは……」


 手詰まりらしい。証拠に、「助けて」「なんとかして」「お願い」とアイコンタクトで俺に救いを求めだしている。ただ、格好が格好なのでイマイチ緊迫感に欠けるというか、どこか牧歌的な空気感が漂っているというか。……つい先ほどまで親父とごたごたしていたのが遠い過去に感じられるくらい、異質な感触に包まれている気がする。そんな中、俺は「はぁ」とため息を吐いて。


「……母さんの前じゃとても言えない。後回しで、二人だけのときに言うから」

「あらあら、あらあらあらあら」


 まあ、二人だけのときなんて訪れないわけだが。しかしながらこの回答は、母さんの感性的には結構高得点だったようで。


「葵もずいぶん大人っぽいこと言うようになっちゃって。そうよね。母親の前では言えないことだってあるわよね」

「そうそう。……な?」


 死なば諸共。矛先を強制的に入江にも向けて、頷かせる。これで共犯になったわけで、後から引き合いに出してからかわれるリスクも消せる。……まあ、十中八九俺がこのファッションをいじり倒す形になるからこいつは黙ったままだろうけど。

 

「うんうん、やっぱり仲良しみたいでお母さんはとっても満足。この調子でとばりちゃんが私の娘になってくれるなら最高ね」

「……はは」


 笑えないタイプの冗談だった。飽きるほど言われてきたことではあるが、今は特別響く。母は隙あらばこういうイマイチ言い返しにくいことをぶつけてくる人で、未だにどう答えるのが正解かわからない。文月の件が頭にちらつくせいもあって、なおさらどうしようもなくなっている。

 言えるものなら言いたい。俺たちのこの姿はビジネス仲良しであって、実際は昔ほど気安い間柄ではないのだと。ただ、あなたが気を落とすのを嫌って、こう振舞っているだけなのだと。


「もう……」


 頬を膨らませながら、入江が言う。本来だったらもっと気を荒げる局面だとは思うのだが、彼女が母を慕っているのもあって切れ味に欠けた。しかし、おかしな話だ。これだけ好き勝手してくる相手を、どうして嫌いにならないでいられるのか。――なんて、その理由はあまりにもはっきりしているんだけど。


「どうとばりちゃん? 最近いやなこととかない? もしあるんだったら、遠慮なく私に言ってくれていいんだからね?」

「ええと、特には……」

「些細なことで全然構わないのよ。親に甘えるのが子どもの仕事なんだから」


 あんたはこいつの母親じゃないだろ――などとは言えなかった。少なくとも、入江が見ている前では。


夜葉よるはちゃんの分まで、いっぱい甘やかす約束だもの」

「おばさま……」


 夜葉とは、母さんが学生時代に懇意にしていた友人の名前。耳にたこができる勢いで思い出話を聞かされて育ったせいもあってか、他人という感じはしない。ほとんど話したことはなかったし、これから先に話すことなどないと知っていようと、やはりどこか身近に感じる人物だ。――たとえ彼女が、既に鬼籍に入っていると理解していても。


 入江夜葉。入江とばりの母親である彼女は、しかしもうこの世にいない。若くして病魔に命を蝕まれた彼女は、己の未練を母に託したのだと聞く。母さんが入江を猫かわいがりするのには、れっきとした動機があったのだ。

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